音楽談議

 


橋本聰一(57年入学 橋本クリニック院長)

 

   
Gross Wien Waltzer Op.440

 19世紀後半、帝都ウィーンは旧市街にあった中世の城壁が1890年に取り壊され、まがりなりにも民主的選挙が行われる様になった。ウィーン郊外だった、ヒルツィング、ヘルナス、グリンツィング、ジーフェリング等が新ウィーンに入って10区から19区に増加し人口136万人、面積は170km2 の大都市となった。これを記念してJシュトラウスは新しい歌のワルツを書き、ウィーン男声合唱団に歌ってもらう計画を立てた。歌詞は「美しき青きドナウ」の歌詞を書いたフランツ・フォン・ゲルネルトに依頼した。このワルツの予告は1890年12月29日に雑誌「イルストリール・ライナー・エキストラ・ブラット」に掲載され、1821年2月17日に行われるカーニバルでウィーン男声合唱団が歌う予定である、と発表された。しかしシュトラウスはオペラ「騎士パスマン」の作曲に没頭していて、作曲が遅れて実現しなかった。1891年の春にワルツは完成した。しかし出版業者とのトラブルで初演は見送られ、1891年5月10日にオーケストラ版の「大ウィーン」がJシュトラウス自身の指揮で500人以上の軍オーケストラで、プラター大ホールで演奏された。演奏者の中に連隊楽団の指揮者、アルフォンス・ツィブルカー、カール・コムツァック、ヨーゼフ・クラール、フランツ・レハール(父)、ヨハン・ミューラー、アーダルベルト・プレトル、ルートヴィヒ・シュレーゲル、カール・ミヒャエル・ツィーラーなど次代のウィーン音楽作曲家が多くいたのは当然であろう。
500人のオーケストラの識は見事大成功であった。翌日の新聞は演奏に参加したフランツ・レハール(子)の文章を次のように載せた。
 大ホールは期待と緊張でしんと静まり返っていた。一見ひ弱そうで年老いた、只一人軍服でない男が、思いのほか若々しくしなやかな身のこなしでめまいがしそうな位に高い指揮台に登った、それが巨匠Jシュトラウスだった。オーケストラに向かってヴァイオリンと弦を振り上げた。序奏は上品な響きを持って始まり、華やかなファンファーレ、そして効果的な終止符、次に起こるのは洗練されたワルツのメロディーが流れ始める。シュトラウスはワルツになるとゆっくり聴衆の方に向き直って、身体が動きだし、やがて腰から上が揺れ始め彼のヴァイオリンと弓がひときわ大きなメロディーを奏で出す。シュトラウスの全身が踊っているのだ。やがて輝かしいメロディーが渦巻き、四千人の聴衆はうっとりとして揺れる。ことのほか美しいメロディーが次々と展開され人々の感嘆を誘う。古き良きウィーンを表す抒情的な愛らしい響きとリズムの後にウィーンの森へと続く郊外の風情を漂わせ、音楽がウィーンに新しく編入された9つの地区を描き出す。巨匠シュトラウスが「現実の大ウィーン」が音楽の様に花開く事を願っているのだ。音楽がまだ終わっていないのに拍手が始まり遂には嵐の様な拍手となった。彼は二度三度とこの曲を演奏して答えた。軍楽隊指揮者のコムツァック氏とレハール氏が見事な月桂冠を二つもJシュトラウスに捧げた。
 10月4日同じプラターの大ホールでウィーン男声合唱団がこの「大ウィーン」をエドゥアルト・クレムザーの指揮で演奏された。当然ながらJシュトラウスも出席していた。そしてこの「大ウィーン」の初演の日は1891年10月4日と云う事になった。演奏会の一番最後に演奏されたが万雷の拍手で二度三度とアンコールに応えて歌う事になった。
 


ドン・カルロ

前回フランスを書いたのは、フランスとスペインとの関係と云うよりヴェルディの歌劇ドン・カルロについて書きたかったからです。
 スペインはヨーロッパの西端に位置する。初めにはローマがカルタゴから植民地を奪って統治した。だから国教はローマ・カトリックである。しかしゲルマン民族が侵入して支配する様になった。711年にアフリカから侵入したウマイヤ朝のイスラム教徒が侵入して来て征服された。それが11世紀まで続くが、それからキリスト教徒のレコンキスタ・再征服運動が始まる。アラゴン(ポルトガル)とカスティーリア(スペイン)は手を組んでイスラム教徒(ナスル朝ムハンマド12世はアルハンブラ宮殿を振り返り、振り返り残念そうに退去したと云う)をただ一つ残っていた首都グラナダ(バラと云う意味)を放棄してアフリカへと逃げ去った。王宮だったアルハンブラ宮殿(ここは写真を見るのと全く違うほど立派で、宮殿に立って見て歩くとより感動しますね)はその後スペインの宮殿として美しい姿を今に伝えて観光事業に貢献している。
 カスティーリア王国のイサベル女王とアラゴン国王のフェルナンドが結婚して国土は統一された(1469年)。イサベル女王はコロンブスを援助してアメリカ大陸を発見させた(1492年)。しかしその血統が途絶えたので1516年ハプスブルグ家からカルロスT世が来てシャルル5世として即位する。その子供フィリップ二世の時代の時に事件が起こる。
 フィリップの子供・青年ドン・カルロは自分の婚約者であるフランス王女エリザベッタに面会するためにはるばるパリに出かける。そして自分が婚約者である事を隠して王女に面会して二人は本能的に愛を感じ、お互いに交換した絵姿の小さいペンダントで婚約者であると発見し、愛を誓い合う。実は当時、フランスとスペインは戦争をしていて、皮肉な事に丁度その時に、スペインから終戦のために使者が来てエリザベッタがドン・カルロの父親フィリップの妻になる条件が付いていた。それを戦略家の国王アンリ2世がその条件で受け入れて、エリザベッタは皮肉にもドン・カルロの母になる事になった。まさに政略結婚が成立し、そこからドン・カルロの一生涯の苦悩の発生の端緒になった。
 ここまで書くとまさに本当に起こった話だと思われるでしょうが実はそうではなく、想像力豊かなヴィクトル・ユーゴーのでっち上げ作品でして、それにヴェルディが自分の樂想が最も豊かになった後期の名作オペラとしてパリで完成させた、歌劇ドン・カルロの粗筋なのです。
 そして彼の苦悩の人生が始まる。エリザベッタに対する愛情を忘れかねたドン・カルロは親友のボーザ侯爵であるロドリーゴに全てを話し「自分は父親とエリザベッタ王妃の住む宮殿には住めない、だから北のフランドル地方(ベルギーとオランダ)に行って、その地方には新教徒が多いので彼等のために働くつもりだ」と打ち明ける。ロドリーゴは「私はフランドルへ行って来ました」とうちあけて、カルロの持つ同志の名簿を「それは危険だからその証拠の書類は僕が預かる」とポケットに入れる。一方フィリップの愛人であったエボリ公女は対象の国王の愛が薄れたのでドン・カルロに乗り換えるつもりでカルロと逢引をする。所がそこに来たのはロドリーゴであった。激怒したエボリは、ロドリーゴが新教徒でありエリザベッタの宝石箱にはドン・カルロの肖像画の入っていると知り、それを盗んで国王に渡して愛情を取り戻そうとする。
ドン・カルロはフランドルから来た貴族たちを国王に面会させフランドルに自由を与えて欲しいと嘆願する。それを見た国王はドン・カルロもまた危険人物であると思って宗教裁判にかける事にして牢屋に入れる。
 それを知ったロドリーゴはドン・カルロも自分も新教徒であると自白してドン・カルロから預かった名簿を王様に提出して自分はどうなっても良いがドン・カルロをフランドルに行かせてやってくれと云う。ロドリーゴ・ボーザ侯爵やドン・カルロの様に人望も武勇も兼ね備えた人物たちをフランドルに追い出せば、領土には新教徒がはびこり収拾がつかなくなると考えた国王は衛兵にロドリーゴの暗殺とドン・カルロの宗教裁判を命じる。
 そして宗教裁判にかけるために牢獄に入れられたドン・カルロに会いにきたロドリーゴをドン・カルロの居る牢獄の鉄格子の前で数人の兵士が銃殺する。そして宗教裁判長と裁判官の前にドン・カルロは引き出されて裁判を受けることになる。カルロとエリザベッタが互いに「さようなら!永遠に」と熱情的に云い合うと、シャルルル5世の墓の扉が突然開いて、そこから年老いた修道士らしき男、実はシャルル5世の亡霊が現れて、皆が恐怖に打ちのめされる中、カルロを自分の墓に引きずり込んでしまう。そしてドン・カルロが終了する。
 と云うのが粗筋ですが、本当のドン・カルロは病弱で(と云うより何か先天異常症の持病があったらしくて)32歳までしか生存出来ず病死してしまう、戦いで活躍したりフランスまで出かけたりなどは病弱で出来なかった。しかし話は良く出来過ぎる程上手く出来ていてユーゴーの偉大な構想がここには生かされています。まあ云えば「講釈師見て来たような嘘を云い」と云う典型的な例とでも云えそうですね。
 ヴェルディは音楽的才能の奔流の中で5幕物として書き上げるが、リハーサル中に既に長過ぎて演奏不可能だと判断して、あちこちのメロデイーを省略してやっと4幕とするが、何度も楽譜を書きなおす。従って重要なアリア、バレエ、合唱や二重唱などが省かれたり、アリアが書きかえられて寄り美しくなったりする、また全曲を省略せずに演奏したりもする。しかしこれはヴェルディの最高の傑作である事には間違いない。
 先ず二人の出会いの二重唱「何と云う愛、どんな熱情に」で感動させるし、次のボーザ伯爵のロドリーゴが歌う「私はフランドルへ行って来ました」とそれに続くカルロとの二重唱「わが仲間、わが友よ」が二人並んで抜刀した刀を天に突き上げながら歌う感動的なアリアです。それに続くカバレッタ「神よ、あなたは我々の胸に呼び覚まして下さる」は非常に力強い友情の歌です。二幕ではエリザベッタ王妃とボーザ伯の「太陽でもあり、われらの愛でもあるカルロさまは」と感情に駆られてエリザベッタにカルロと会ってやって欲しいと訴える。彼女が密やかな面会に同意するとカルロと彼女は二重唱「女王様のご温情を頂戴したくて参上しました」と歌いあげる。第三幕第一場のフィナーレは音楽的にも劇的にも歌劇ドン・カルロスのクライマックスであり、この合唱「ここに明けた、輝かしき歓びの日が」である。最初に修道士たちの異端者を火刑の刑場まで送る送葬曲を歌い、悔い改めて改宗した者は救済すると抒情的に壮大に歌い上げる。フィリッポ2世は「彼女は私を愛していない」と歌い王権での復讐を歌う。王と盲目の宗教裁判長エボリ姫とエリザベッタの苦悩に満ちた4重唱「ああ、呪われよ、宿命の疑惑よ」と宝石箱から出てきたカルロの絵姿で王妃とカルロの間を疑う。そしてカルロは牢獄に入れられる。牢獄に面会に来たボーザ伯爵・ロドリーゴは「私に最後の日がやって来ました」と歌った直後に銃殺される。「ああ、私は満ち足りて死んでいきます」そこで微かに「友情のメロディー」が流れる。そして裁判を前にしてエリザベッタとカルロは「輝く様な夢を見ました」と歌い二人が「さようなら」「永遠に」と云う所に王や裁判官が現れ、カルロはシャルル5世の墓の前まで後ずさりすると、墓の扉が開き中から王冠をかぶった修道士の姿の祖父の亡霊が現れてカルロを墓の中に引きずり込む。だけど歌劇ではどうして死にそうな位、病気や重症の人が歌劇場の一番後でも聞こえる位の大声で歌えるのでしょうか、発声法の良い人が歌う「歌劇だから」としか言いよう無いですね、何が何でも歌ありき、ですね。
 まあヴェルディが何度も書き直したから後期の名作オペラです。期待してDVDを見ましょう。
これに比べると、国民との約束と、沖縄への約束と、米軍との約束、いや国と国の約束を破る人の苦悩は大した事ではないのでしょうか。鳩山さんの顔つきや態度から見て、頭の中には苦悩は何もない様なのです。ソ連(ロシヤ)は国際条約を破って領土を盗み日本人を奴隷にして殺す、韓国はどさくさまぎれに竹島を盗む。中国は平気で日本の領海で石油を盗む、ヘリコプターで威す。米国は血を流して沖縄を占領した。日本は無条件で降伏した。それを「無償で返す」なんてありえない。米国はこう言った「これが嫌なら返さないぞ。いいか。基地を置かせろ。基地の維持費を出せ。原水爆は持ち込むぞ」なんて云う密約があるのが外交の常識、いや人間の常識じゃないでしょうか?基地がなくなれば沖縄の人はどうして金を稼ぐのだろうか。スピークス基地と海兵隊の基地がなくなったフィリッピンは一度に仕事が減ってGNPが少なくなった、それから考えても最初から無理なのだ。皆でこの夏は沖縄支援の観光旅行に出かけますかね?
 


口笛吹と犬    橋本聰一
 新年おめでとうございます。と云っても毎年のことながら、年末に書いても御挨拶できるのは1月20日前後ですから、間の抜けた文章になりますが。年賀状やお中元、お歳暮などは無くした方が良い虚礼の習慣だとは思うのですが、まあ、50年位で無くなる可能性はどうでしょうか?
 正月は皆さまウィーンフィルの新年演奏会を楽しまれた方も多いと存じます。ワルツは19世紀の半ばになると、ウィーンでは一晩中踊り狂う時代ではなくなり、代わってヨハンとヨーゼフ・シュランメル兄弟の曲やウィーナーリートと呼ばれる曲を聴きながら食事とワインをホイリゲと呼ばれる酒場で楽しむ時代になっていました。ホイリゲとは、ワイン農家が許可をもらって、ある決められた時期に自家貯蔵のワインを飲ませる酒場の事です。各酒場が競って小さな合奏団や数人の流行歌手で演奏をさせて楽しませたのです。ワルツはオペレッタの中で歌われるために生き残りました。しかしウィーンの人々の音楽好きは止まるところを知らず、良いメロディーを作曲した人がいると、何時の間にかウィーンの街中の楽団が演奏を始めるのでした。ワルツの舞踏会も残ってはいたのですが大々的に行われるのは、新年で今でも200〜300の舞踏会が行われていて、ウィーンの人々のワルツ好きは特別な様です。昔のウィーンの人々の家にはピアノかヴァイオリンなどの楽器を持っていて、自分で演奏して楽しんでいたのでした。ですからヨハン・シュトラウスは作曲すると直ぐに出版社に出版させたので大きな利益を得ることが出来たのです。だから末弟のエドワルト・シュトラウスがヨハンの死んだ時に3日間もかかってシュトラウス楽団の楽譜を全部焼いてしまっても、我々は彼等の曲を楽しむ事が出来るのです。
 題名の「口笛吹」と云うのは、ウィーンには口笛専門の上手な職人的な音楽家がいて、記譜出来なくてもウィーンの街中を、口笛を吹きながら流して歩けば、ラジオやテレビがなくてもウィーン中に流行させられたのでした。「口笛吹と犬」は今では口笛をそんなにうまく吹く人がいなくなったのでフルートかピッコロで演奏されます。最初からオクターブのポルタメントで始まる印象的で愛すべき曲で、犬が最後に調子良くワンワンと吠える声が入って終わるのです。ウィーナー・リートの世界では作曲者はだれか分からなくてもウィーン中で歌い始めてくれた。ウィーナー・リートは直感的な心情から旋律を作っていた。全ての歌は早こしらえで一夜明けると流行していた。
 その理由は二つあり、その一つは、とても人気がある何人かの演奏家のおかげである。彼達はプロとして酒場の主人が客相手に催してくれた音楽会で演奏した。二つ目の理由は「素人歌手(専門的な音楽教育を受けていない天性の歌手)」や「口笛吹」と呼ばれた街中の素人音楽家である。では「口笛吹」とは何者だろうか?まず音楽の盛んなウィーンには20世紀に入る頃まで甘美な響きを持つヴァイオリンの音に合わせて口笛で心地よく歌を奏でる音楽家がいた。こう云った芸術は今ではほとんど忘れられたが、今でも年のいった男性がアコーディオンを片手に高音の口笛で音楽を吹き鳴らしながら街中を歩いている。ストリートミュージシャンの音楽家グループの若者も、そう云った口笛吹きの老人の事を知っていて、自分たちの仕事の邪魔をされない様に尊敬をこめた、うやうやしい態度で「ヘルナルス(ウィーンの別名)のひばり」と云う職業上の名前で呼んでいる。残念な事だが少数の彼等が最後で「口笛吹」の後継者を育てる事は困難な事らしい。
 辻馬車の主人の催しによる小編成の音楽家達をウィーンの人々も貴族も、もちろん中にはメッテルニッヒ夫人も聞きに行き、外国の王侯貴族のもてなしにこれらの音楽家を招待して演奏させた。驚くべき事にハンスリヒターはシーズンの千秋楽にウィーンフィルのメンバーをホイリゲに招待してシュランメルンやウィーナー・リートを聞かせた、と云う事です。ウィーナー・リートの主なものはCDで聞けますが一番有名なのは「ウィーンの辻馬車の歌」「真のウィーンっ子の心」「さあ、ワインを飲もうもう一本空けよう」「人間、人間、私達は皆」「天の親切な父上」「夜遊びこそ我が人生」「今日はほろ酔い気分」「おれの母ちゃんはウィーンの女だった」「ワインにしよう」「ああウィーン、我らが愛するウィーンよ」「これが本当のウィーンっ子」「これがウィーン風」など挙げればきりがありません。
 ウィーナー・リートの歌手達はウィーンの英雄でもあり、上流社会にも受け入れられていて、芸術家として尊敬されて来たのだった。例えばアントニア・マンスフェルトです。彼女は男装で登場し、きわどい内容の歌をレパートリーに持っていたが、1873年の万国博覧会の時には、来賓の前で歌うように依頼された。同じくミッツィ・トゥレツェックもフィアーカー・ミリ(辻馬車娘として有名だった)としてリヒアルト・シュトラウスの歌劇「アラベラ」の第二幕で「御者の舞踏会」に歌の名手として登場したのだった。
 今でも、ウィーン音楽協会、ウィーンフィル管弦楽団、ウィーン国立歌劇場の人気歌手や演奏家たちが、これらの歌を卑しむどころか率先して公の場で演奏し、聴衆の支持を得ている。
 まあ一度ウィーナー・リートの世界に踏み込んでみて下さい、別の楽しい音楽が聞けますよ。CDはあまりありませんが。
 

            
ミルテの花         橋本聰一

ウィーン王室の皇太子ルドルフ(1858年生まれ)はベルギー王家レオポルド2世とその妻マリー・アンリエットの2番目の娘でまだ子供のシュテファニーがブリュッセルで婚約した。この性急な婚約でルドルフは父だけではなく母までも驚かせた。この結婚を両家は引き延ばそうとしたが1881年5月10日に結婚式が行われる事になった。儀式はウィーンで行われ、その後若い夫婦は薄暗いラクセンブルグ城で生活する事になった。ウィーンの議員たちも驚いたが咄嗟に彼らはワルツ王ヨハン・シュトラウスに祝典の曲を依頼する事に決めた。オペレッタ「女王のレースのハンカチ」の作曲をしていたにも拘らず、この依頼に応じ、11曲のワルツのメモを書きとめた。祝典行事は延期された。しかし結局カイザー・ホーフで発表する事になり、宮殿音楽監督のエドワルト・シュトラウスはワルツ「ヴェールと王冠Op.200」ヨハンは祝典行進曲Op396と作家アウグスト・ゾイフェルトの作詞による「ミルテの花」と名付けられたこの曲はウィーン男声合唱団で発表する事になった。
合唱団は1881年5月8日ウィーン・プラター国民祭で、ヨハンの指揮の下男声合唱団とオーケストラの曲を興奮した聴衆に披露した。次の日のウィーンの新聞は熱烈な文章で「愛くるしい、すばらしい」ワルツと聴衆の拍手喝采の様子を報告した。献呈の言葉「オーストリア帝国及びハンガリー王国の殿下、大公ルドルフと大公妃ステファニーに捧げる」と云う言葉も当然掲載された。「約2000人の聴衆の前でハイライトになったのは『ミルテの花』だった。新郎新婦に捧げるためにヨハンが舞台に登場すると、数分間もの長い拍手が鳴り響いた。序奏の後最初のワルツが鳴り響くと、ウィーン子の心をしっかりと虜にし、本物の歓声が聴衆の間を駆け巡った」5月6日のゲネプロもヨハンの手でなされ、これらの大成功はウィーン男声合唱協会のプログラムで7月14日「ノイエ・ウェルト」で開かれる夏のプログラムにも加わった。1881年6月13日、ウィーン市長は市町村参事の名でワルツ「ミルテの花」の作曲者に対して謝辞を述べ、そして「皇太子ルドルフ婚姻メダル」を2個も授けた。合唱の歌詞では、最後の部分は次の様になっている。「貴女の新しい祖国が/貴女を今日、身も心も歓迎している/ベルギー王の子/北欧のバラ/貴女を南の国が、愛をこめて歓迎している」序奏はハープが荘重な幕開けを告げ、ヨハンが用いたこの世にあるとは思えぬ程よいメロディーの4分の3拍子にとてもよく合う歌詞であった。「最後の音が鳴り止むと、聴衆はアンコールを求める拍手喝采の嵐を巻き起こした」と報じた。その日、ルドルフとシュテファニーは余りにも人出が多かったので男声合唱協会の演奏会場まで到着する事は出来なかった。そこでエドワルトが急いでもう一度「ミルテの花」のオーケストラ版と「ヴェールと王冠」を演奏して二人に聞かせた。
この夫婦の悲しい運命、彼らの終焉は皇太子ルドルフがマイヤーリングで自殺した事(1989年1月30日)で始まるが、それと共にこの曲は再び繰り返される事はなかった。しかしウィーン子からこれらのメロディーは失われる事はなかった。何故ならば楽長アドルフ・ミュラーがこの曲の引用をオペレッタ「ウィーン気質」の伯爵夫人登場の音楽の第2主題のメロディーとして鳴り響き続けているからであった。オペレッタ「ウィーン気質」は今も絶大な人気で「こうもり」と同じく全世界で演奏されている。

 


     
目次

T.ウィンナーワルツ
第1回 ウィンナーワルツ創世記
第2回 ヨハン・シュトラウスII世
第3回 ヨハン・シュトラウスU世の主な作品群
第4回 ヨハン・シュトラウス作品・続き
第5回 ヨハン・シュトラウス作品・続き 「こうもり」
第6回 ヨハン・シュトラウス作品・続き 「美しき青きドナウ」
第7回 花の都パリをわかせた男・オッフェンバック

第8回 シュトラウスの時代のウィーン
 

U.シューベルト 花占い

V.悪魔に魂を売った男パガニーニ

W.鍵盤の魔術師フランツ・リスト

X.「椿姫」

2008−2           シチリア島            橋本聰一

昨年の漢字は「偽」だそうである。なるほど“漢字で人偏に為す”はにせなのだ、人は皆騙すものなのか、そういわれれば判る気がする。有名人は悪人だらけの世の中になってしまった、いや太平洋戦争の頃からそうなのだろう。悪は栄え、善は滅ぶのだ。

 伝説では、シチリア島はオリンポス神と巨人族の戦いの時に、アテナが巨人の一人、エンケラドスを封じて投げつけて出来た島だと言われる。長靴の形をしたイタリアの爪先にある三角形の島である。三角の北端はフランスに向き、南端はアフリカに向き、東端はイタリア本土の爪先にあるレッジョ・ディ・カラブリアとメッシーナがほんの数キロの海峡で向き合っている。 
シチリア島と言えば我々はゴッドファーザーを思い出しマフィアの巣と思いがちですが、
その昔、ギリシャの植民地とされシケリアと呼ばれた。アテネの支配を受けるが、領主はコリントス、スパルタ、カルタゴ(フェニキア・今のシリアからパレスチナまでの国だったがアレキサンドル大王に滅ぼされた・の植民地であったが独立した、アフリカ北部イタリアの対岸にあった)と代わったが、シチリアはイタリアの総面積の一番大きい州でシラクサ、メッシーナ、パレルモなどの町が栄えた。メッシーナは紀元前256年カルタゴを追い出そうとローマに救援を求め、これがローマとカルタゴのポエニ戦争の発端となった。この島に生まれたアルキメデスは第二次ポエニ戦争で殺された。地面に三角形を書いて研究していた時に、戦士が乱入したので「この三角形を踏むな」と叫んで槍で突き殺された、と云う説と豆畑に逃れたが殺された、と云う説がある。結局はローマに支配されたが、シチリアの旗にはメヂューサの顔と三本の脚を描いた人物像を中心とし斜めの線で赤と黄色の三角形に塗り分けられている、で上の三つの都市を示すとされる。(パレルモの隣町カターニャは有名なオペラ作曲家ヴィンツェンツォ・ベッリーニの生まれ故郷で、そこにはベッリーニ歌劇場があります)その後は東ローマ帝国、ノルマン人、1282年にはフランスに統治されていて有名な「シチリアの晩鐘事件」が起こる。以後アンゴラ(即ちスペイン)の属国となり、イスラム教徒などの影響を受ける、やっとサルジニア王国に占領されてイタリヤの一部となって現在に至っている。太古から海上貿易に適していたので3都市は文明も発達して非常に栄えた。2006年までにイタリア本土との間に鉄橋をかける筈であったが資金難で挫折していて完成していない。
 どうしてシチリアなんだって、そう昨年シチリアのパレルモ・マッシモ歌劇場の公演が琵琶湖ホールであったからです。マッシモ(最大)と云う名がついている通りヨーロッパでは三番目に大きな歌劇場で、パリ(11,235u)、ウィーン(8,750u)、マッシモ(7,730u)舞台の奥行き28.6m奥舞台を含めて52m(ウィーン25m、パリ26.3m)最大の歌劇場であります。この歌劇場はこの町の裕福な商人達が中心となって資金を集め、フィリッポ・バジーレが1875年に着工、完成させたのは息子のエルネスト・バジーレで1897年竣工した建物でパレルモで花咲いた“ベル・エポック”の贅を尽した内装だった。舞台と土間席は逆の傾斜がついていて、馬蹄形の劇場で平土間席と5層の桟敷席その最上階は天上桟敷席で、ワインレッドの座席、壁は全て金箔貼り、天井にはロッコ・レンティーニによる美しくて大きなフレスコ画、座席数3200(現在は1800席、どうして数が減ったか、ですかドイツに占領されて連合軍のハスキー作戦による破壊は免れたものの、1974年に倒壊の危険があると診断されて補強工事が始まり1997年に修了したからです)劇場正面には左右には夫々二頭のライオンが美女リリカ(歌劇)とトラジェヂア(悲劇)を背に載せた像があり、その後ろには6本のコリントス様式の大円柱があり、その上にはギリシャ神殿様式の堂々と装飾を施された屋根、アール・ヌーボー様式の正面の大階段(ゴッドファーザーPART3でコリオーネの娘が凶弾に倒れる場面でこの部分はご覧になっている筈です)内部のロイヤルボックスでも絢爛豪華な装飾と背後には「紋章の間」「ポンペイの間」があり、全聴衆のためのカフェ・レッテラリオ(文学カフェ)にも彫刻や絵画が掲げられ飾られています。
 いや、書きたいのは昨年6月に、ヴェルディのオペラ「シチリア島の晩鐘」を聞いた事です。これは素晴らしく音楽性にとんだ傑作でしたがパリでは失敗でした。その理由はフランス人には受入れ難い筋書きだったからなのです。ヴェルディは正式に結婚もしていない女性ジュゼッピーナと同棲し故郷には居れなくなってパリに来たのですが、トロバトーレ、リゴレット、椿姫と3台傑作を書いた勢いに乗ってパリでも素晴らしいオペラを発表して成功したかったのです。お金も少なくなったヴェルディは絶対に成功しなければならないとあせっていた、しかしパリで発表するには台本選びに失敗した。
仏のアンジュー家フランス人の総督が治めるパレルモでの事件を題材にしているのです。その総督が現地の娘に生ませた子供を見つけ出したまではいいが、その息子・アッリーゴは父親を知らず反逆するパレルモ人勇士として育ち、反逆者として何度も逮捕されているが、その中で兄を反逆者として処刑されたエレナ公女を愛するようになる。父親はアッリーゴを息子と知って“お父さん”と言ってくれたら全て許す。と云うが恋人エレナは仇を刺殺するのに失敗して逮捕される。面会したアッリーゴはあの男は僕の父親だと打ち明けて二人で許してもらい結婚する事になる。ところが結婚式の式場に隠れていた男達が結婚式の鐘の音を合図に反逆(アンゴラ即ちスペインの援助で武器を手にして)を起して父子とフランス人武士は虐殺されてシチリアは自由を得た。実はスペインの支配を受けることになるのですが。
 こんな筋では、途中退場する聴衆・貴族が続出しても仕方がない。何しろフランスはカトリックの国でユグノーと称する新教徒をセントバーテルミューの大虐殺で大量に殺害した事がありましたね。デュマが書いた王女マルゴ全二巻にその辺の事情が大変よく判りますよ、要するにマーガレット王女(即ち愛称マルゴ・旧教徒)とナバール公(ユグノー)を結婚させるために全ての貴族(わざとユグノーの主な貴族を殆ど招待して)をパリに集めた上で新教徒(ユグノー)を全て虐殺したのがマルゴの母親マルグリット・ド・メディシスだったのです。呪われたメディチ家ですね。スペインも旧教徒の国でした、その王子ドン・カルロがパリに来て恋仲になった王女様がお父様・フィリッポ二世と結婚する事になってしまうのです。ドン・カルロは絶望してフランドル・今のベルギーに逃れて王になろうとするが、宗教裁判で死刑になる。こんな話はいくら曲が美しくてもフランスで成功する筈がないと思わないのがヴェルディの浅はかな所でマイヤーベーヤーみたいにバレエのついたグランドオペラにしても成功は望み難い。「シチリア島の晩鐘」も「ドン・カルロ」もヴェルディ中期の名曲はだというのにオペラ全集にも一行書いてあるだけで簡単に不成功だった、としか書いてない。フランス語で上演しても駄目でイタリア語でやっても旧教徒の総本山の国ですからねぇ。それに素晴らしいテノール四人、バリトン二人、バス四人にソプラノ一人、メゾソプラノ一人などキャスティングも困難です。しかしイタリアではこの歌劇は評判で「ジョヴァンナ・ディ・グスマン」と名を変えて上演していました。しかしすぐに認められて原題で上演されるようになります。CDは良いのがありますが今は廃盤で、DVDもマッシモのしかないのです。このマッシモ歌劇場では経営方針が特殊で、オペラは全て14公演するとしているため、ここで勉強した有名な指揮者は数知れずC.M.ジュリーニ、リッカルド・ムーティ、クラウディオ・アバード、など居り、かしゅでもジョーン・サザーランドなどが、演出家ではルキノ・ヴィスコンティ、フランコ・ゼッフレリ、ピーター・ホールなどがこの歌劇場を足場に育っています。勿論全ての有名なオペラ歌手がここで歌った記録があります。
しかしシチリア特にパレルモ(事件の起こった場所)では違った。ここでは我らのオペラでありアッリーゴは英雄であった。従ってマッシモ歌劇場では熱の入れ方が違う。まあ一度「シチリア島の晩鐘」の序曲を聴いてみて下さい、総督が歌うバスのアリアを朗々とチェロが弾いてくれるのだけを聞いてもこのオペラの聞き所で魅力のありかが判る筈です。またマイヤーベーヤーの向こうを張って筋には関係のないバレエ曲を作って挿入していますが、J.シュトラウス、チャイコフスキー、ドリーブも顔負けするくらい四季ボレロという4曲30分もかかる美しい舞曲ですよ。
当然ヴェルディもその後は台本選びや歌詞には注意を払って「仮面舞踏会」「シモン・ボッカネグラ」「運命の力」「ドン・カルロ」「アイーダ」「オテロ」「ファルスタッフ」後期傑作の金字塔を作り上げるのですが、それは又の機会にお話しましょう。
座席は偶然ながら岡田伸太郎先生のお隣でしたが、帰りは大雨で、隣の大津プリンスホテル38階でずぶ濡れになりながら久し振りで、親娘で食事しました。マッシモ歌劇場が作った176分のDVDも買って帰ったがまだ見る暇がない。ボレロは入ってると言って売りつけられたが多分入ってないだろう。プリンスホテルにMassimoと書いてあったから、多分ここに泊まるだろうと思っていたが、衝立の向こうで大声のイタリア語が聞こえ始めた。多分マッシモの連中だと思いサインでもしてもらおうかと相談したが数が多すぎて誰が誰で誰に頼めばよいか判らないので止めにした。帰りにレジのおじさんが、これから酒が回ると食堂中が大音響に包まれるくらい大声で何かになしに歌い出す、音楽会の二次会になりますから(それを聞いて、どこの楽団も同じだななんて考えてしまいました)、よければ宿泊なさって聞いて行かれたらと言われたが、遅かったのとそれに二人とも勤務があるので断念して帰りました。ヴェルディにとって奥さんと隠れ住んだパリでオペラを成功させるのは悲願だったが初演は不成功だった。10日も公演したと書いてあったが、入りは悪かった。だってフランス人が暴君で鐘の音とともに殺される話だから、パリで成功すると思うほうが悪い、世間知らずですよね。今日の韓国で韓国を悪く云う劇を上演したのと同じで、初演の時に途中退場する貴族が続々と出たというのも当然ですね。

 

     オペラ「椿姫」の音楽    橋本聰一

 オペラ歌手のアリヤのリサイタルで一般受けする物と言えば、先ずはモーツアルトの「フィガロの結婚」と「魔笛」そしてビゼーの「カルメン」それにこの「椿姫」であろう。それにプッチーニのオペラのアリヤも良い。プッチーニの戯曲はいいのだが、どうしてあのようにつまらない曲しか作らなかったのだろう。薄汚れたレスタチーボばっかりの中に埋もれた宝石みたいな美しいアリヤを放り込むなんて、どうしてこんな曲を作曲したのだろう。高い金を出してプッチーニを聞きに行くのは金と時間を捨てにいくみたいなものだ。「お前の音楽的な理解力や感性が不足しているのだ」なるほどごもっともです。でも僕は行く気になれませんね。
 音楽のコンサートを聴きに行ったら、多くの場合かしこまって、咳一つせずに静粛に聴くのが普通で、国内外での演奏会でもそうでした。しかし親友の某君がミラノのスカラ座で聞いた時には非常に驚いたそうである。だって歌手が歌うのに合わせて聴衆までが全員でアリヤや合唱を歌っていたからです。そう云えばウィーン国立歌劇場ではオーケストラの楽団員が、必ず皆でオペラの演奏に協力する場面が幾つかあるそうだ。先ず「椿姫」の第一幕では全員が弾きながら合唱にハミングして協力する事になっている。次にR・シュトラウスの「アラベラ」の第三幕でヴァルトナー男爵が破局するのをやっと切り抜けた後「もうこんな事は起こらない」と歌う時に、また「バラの騎士」第二幕でオックス男爵が「こんな事なら家に居た方がましだ」と歌う時もオーケストラは心から同じ願いを込めてしっかりと同様にバックアップする。そして「サロメ」ではヨカナーンの首を切る時にしっかりと足をドン、ドン、ドンと踏み鳴らして首の打ち落としを強調するのだそうだ。
 椿姫のヴィオレッタは肺病・結核で死ぬのであるが、呼吸が苦しくて息が続かない。有名な「乾杯の歌」よく聞いて見て下さい。アルフレードは全部歌っているのに彼女は第12小節のアウフタクト(即ち第11小節の最後の八分音符)が8分休止符になっているのです。アとかオ、と云う無意味な歌詞でもつければ全部歌えるのにわざわざそうしているのはそういう意味なのだ。オーケストラが同じメロディーを弾いているので気が付きにくいのですが楽譜を見れば一目瞭然です。アルフレードがヴィオレッタと二人きりになって愛を告白する時の「想っていました」では一見単純と思われるが心理的な深い読みをすると作曲家ヴェルディの計り知れない、能力を如実に示してくれる例となる。単に優しいメロディーと派手な装飾音を対比させるなら並みの作曲家なら誰でも出来るが。ヴェルディがここでしたのはそれ以上の事であった。アルフレードのメロディーの調子は最初には非常に低くて柔らかいものだが、彼が愛を告白する時に烈しい情熱となって燃え上がり、リズムは三連音符になって分解してゆくのである。しかも優しく情熱が燃え上がると云う本質的な性格は変わらない。続いてヴィオレッタがこの情熱を掬い取り抱きとめるのがこの三連音符なのだ。そしてレガートの線を肺病からくる息切れでとぎらせながら、それを全く違ったリズムで引き継いで行くのである。その激情の奔流は「花から花へ」へと、息を苦しげに喘ぎながらも感情に乗り移って美しいが激情に駆られた第二主題となってゆく。見事な構成なのだ。
 第二幕でも義父ジェルモン「息子と別れてくれと」いう難題の会話も途切れ、途切れ歌う、これも精神的ショックも表現しているのだが、実際には息が続かない事をも表現しているのだ。第二幕がつまらないと云う批評に対して、ヴェルディは「もし二人の歌手さえ充分歌ってくれれば、私が書いたどの二重唱よりヴィオレッタとジェルモンの二重唱は優れているのだ」と答えているし、アルフレードとの悲痛な別離の場面のメロディーなど彼以外には絶対に書けないものだ。ジェルモンが歌う「プロバンスの陸と海」も当時の専門家から「余りにも民謡風のメロディーが繰り返され過ぎて、只それだけのつまらない曲だ」と酷評されたが、ヴェルディは「今に見ていなさい、この曲はバリトン歌手が一番好んで歌いたい曲になるから」と呟いたそうだ。
 第三幕の間奏曲もちょっと聴いただけでその悲劇性を暗示させる魅惑的な作品だ。またヴィオレッタがその後の経過を知らせる義父ジェルモンからの手紙を読む所(ヴェルディ作曲の“マクベス夫人”で使われた手法だがもっと精練されている)で読み終わると、「エタルディ・遅かったわ」と叫ぶところ等秀逸の感傷性だ。死の床にいる彼女の窓際を通り過ぎてゆくお祭りを祝う楽隊と人々のさんざめきのメロディーも楽しそうなのに、何と空ろで悲劇的に響く事か、ヴェルディの楽想に感謝する。アルフレードが帰ってくる場面の早く早くと急き立てる様な曲の作りも非常に感動的で、音楽も彼を待ちに待った彼女の心情を表現するに余りある物だ。やっと彼が入ってきて二人で歌う「ヴィオレッタ、もう決して離さない」「アルフレードやっと帰ってきてくれたのね」との会話から始まる二重唱「パリを離れて」は美しくて一度聞けば二度と忘れられない二重唱だが、その底に流れるのは、歌こそ華やかに希望に満ちているのに(パリみたいな所には住まないで、田舎に行って二人だけの幸福な家庭を作ろう)、その踊るように湧き上がる付点四分音符を取り去ってしまうと何とトロバトーレの終幕で殺しあっている三人の横でまどろみながらアズチェーナが歌っている「山へ帰ろう」と同じ様なメロディーに収斂する哀しい音楽が流れているのだ。そして底流では将来彼等に襲いかかる悲劇的結末の予感が相通じているのが発見されるのである。それはヴェルディが午前には「椿姫」午後は「トロバトーレ」と云うように同時に作曲していたからに他ならない。しかもここでもヴィオレッタは肺病で息が入らずあちこちで休止符が効果的にちりばめられているのだ。ヴェルディの休止符の使い方は大音量のR・シュトラウスにおける客席で鳴らされる12本のトランペットよりもアイーダの凱旋行進曲と大合唱(あれがどうしてサッカーの日本の応援歌なのか意味は不明だが、多くの人にヴェルディに親しんでいただけるなら良い事だが)で一番盛り上がった所で完全な無音の一小節を入れているのがどれだけの効果音になるか、音楽的感性のある人の心をしっかりと掴んでくれる名曲なのだ。こんなこと素人の僕が書いてもあまり意味がないかもしれない。医者としての一面の見方です。僕が名曲を解説するなんてとんでもない精神的に音楽に対する反逆で冒涜だ。

    アレキサンドル・デュマ即ち椿姫の義父    橋本聰一

私には両親が二人、祖父母が4人、曽祖父母が8人、いる事になる、このことは確かな事実だ。大体出自も判っている。それ以上は不可能だからこれで2の3乗、その一代前は、とさかのぼっていく、そして25代前になると、(一人が20歳で結婚して子供を産むとして、五百年前になるが)、私の祖先の数は何と2の25乗、即ち33554300人の祖先がいたことになる。日本の人口が三千万人と云うのは、江戸時代の忠臣蔵・元禄時代になる。そうなのだ、何を私が云いたいかを判っていただいたでしょう。詰る所、全ての日本人は当時から今に至ると全員が親戚同士なのだ。だから仲良くしなくてはならない。それからもう100代でもさかのぼろうものなら人類は皆、同じ祖先を持つのだ。計算上はそうなるから文句は無かろう。この説には嘘がある、昔はいとこ結婚や、財産を守るための親類結婚、いやもっと醜い兄弟婚や、親子婚等もあったはずであると考えていない点だが、それもあと十代遡ると問題はない、もっと人口は少なくなるからである。
 アレクサン・デュマに話を戻しましょう。母親が「アレックス」と森に向かって叫んだ。「もう夕食の時間だのに、またブリッシュさんの所へお父さんの話を聞きに行ったんだわ」と呟いた。6歳にしては異常に頭の大きい、しかも運動神経が父親に似て抜群に発達していて、でかい頭にモジャモジャの縮れ毛の頭髪が載っている子供が走って来る姿が見えた。
「お父さんの話を聞いてきたのだ。ねえ、ねえ、お父さんがパリに上京したその日の内に三人の貴族と決闘した話や、マントバでは城攻めにトンネルを掘りぬいた話や、モンブランの冬山を越えて入った村では、もう少しでギロチンに架けられる村人を助けたのだって。
その人達が教会の鐘で大砲を作るために供出しようとしたという罪名だったが、デュマ将軍は教会より大砲が大切だ、だからそのギロチンの木枠を燃やしてしまって暖を兵士達に取らせたらしいの。その代わりにお父さんが後で査問委員会に掛けられて、ギロチン送りになる所をロベスピエールの一言で助けてもらったのだって、知ってた?それにナポリでは幽閉されていた断崖絶壁の牢獄から抜け出して300メートルも滑りそうな絶壁を素手でよじ登ってパリに帰ってきたらしいの」母親はデュマの話を聞きながら、事実とは大分かけ離れているとは思いながらも頷いてやっていた。小学生高学年になるとデュマの父親の自慢話は益々面白おかしく魅力的に脚色されて事実とは違った物語になってはいたが友人達にとってはデュマ少年の話は面白くて仕方がない様で皆が集まってきて目を輝かせて話に聞きほれる位に上手く話すようになっていた。
 デュマの父は退役将軍になってからは、妻の親がしていた旅館の仕事を手伝っていた。旅館とは、日常と非現実的非日常、事実とフィクションの入り混じった宿泊人が一夜の俳優である劇場とも云えよう、まあ今のラブホテルとも考えられよう。だからデュマの小説に出てくる旅館の名前は非常に多くて数えた人も途中で止めてしまったらしい。父親に死なれたアンドレはつつましい母の元で父親譲りのエキゾチックな容姿と抜群の運動神経を持ち、習字と射撃が上手くて上記の如く話し上手な子供になっていた。17歳の時に地方公演の「ハムレット」に感動して、劇作家になろうとパリへ上京したのは1823年である。直ちに父の友人フォア将軍の推薦でオルレアン公の書記見習いになり、仲間からシェークスピア、ゲーテ、ギリシャ悲劇や歴史学の教えを受けた。彼は同じ階に住むマリー・カトリーヌ・ルペーと親しくなってデュマ・フィス(椿姫の作者)を1824年に生ませたのは22歳の時であった。
以後毎年「婚礼と葬式」「アンリ三世とその宮廷」「クリスティーヌ」などの戯曲を発表して華々しく劇壇に登場した。旧主オルレアン公はルイ・フィリップとして王位に就いた、だからデュマは国家の秘密文書にも目を通す機会が得られた。ヴィクトル・ユーゴーの「エルナニ」(これをオペラ化したヴェルディとの事件は有名)も発表されて二人はロマン派演劇の古典的傑作作家としての名を欲しいままにした。
 1844年「三銃士」「モンテ・クリスト伯」発表。これは私の子供の時からの愛読書で大学生になって完訳書を改めて読んで感激して今も手元に置いている位です。筋書きや登場人物については書かなくても良いでしょう。モンテ・クリスト伯ではデュマがロッシーニの「ウイリアム・テル」を登場させています。第一幕と二幕の幕間に事件が起こります。モンテ・クリスト伯のコンパートメントへ復讐相手の息子アルベールが闖入して彼に決闘を申込もうとするのです。友人に抱き抑えられてもしっかりと握り締めている白い手袋を彼は奪いながら「これは私に投げつけられた物として頂いて置きましょう。明朝10時に貴方の好きな武器で決闘をする事にしましょう。さあ、これから楽しい第二幕が始まりますよデュプレ(実在のテノール歌手)が歌う有名な“ああ、マチルドよ、わが心の偶像よ”は絶対に聞き逃せんからね。ナポリで一番最初に無名だったデュプレを聞いて感動してブラボーを叫んでやったのはこの私ですからね」「伯爵、彼と貴方は友人ではありませんか、決闘はやめてください」「モンテ・クリスト伯に命令できる者はモンテ・クリスト伯以外にはありません。彼は明朝10時には何れの武器で戦うにしろ、絶対に死体になっておりその上にこの手袋を投げ返しているでしょう」と平然と言ってのけた。実際はその通りにはならなかったのだが、これは読んでのお楽しみに。
 デュマの女遍歴は物凄く作った子供は百人を超えると豪語していたそうだ(デュマはいつも大げさではあるが・・・)。女優イダ・フェリエと結婚してもこの性癖は治まらず、複数の多大の数の女性に対する、贈り物、養育費、旅費に浪費癖が加わり、常に借金取りに追いかけられていた。1848年二月革命が起こるが、パリ郊外のサン・ジェルマンの丘に壮大で豪奢・絢爛豪華なモンテ・クリスト城を完成した(今も現存していて見学できますよ)。7月25日大招宴会を開き、宴会場の中央天井には荘大華麗なシャンデリヤが輝き、巨大な皿にこぼれるばかりの金貨を山の如く積み上げ誰でもいくらでもポケットに入れられた。世界各国から取り寄せた山海の珍味と銘酒、各界の名士600余人を呼び集めた。城の上には先祖のパイユトリ公爵家の家銘「旗を風に、魂を主に」と書いた吹流しが翩翻と翻った。彼の得意の絶頂の時期だった。国王一家の他、政治的財政的後押しで「歴史劇場」を創設して大成功した。しかし妻に訴訟で破れ、二月革命で劇場の運営は破綻、身柄を拘束されそうになってナポレオン三世のクーデター最中にベルギーに亡命した。ユーゴーと協力して亡命者仲間を束ねた、そのうち債権者と印税の45%を支払う事で和解が成立した。1860年に大型帆船を買い、モンテ・クリスト伯の如く若い愛人と共にシチリヤ島パレルモに向かった。そこでイタリヤ統一運動の闘士ガリバルディに面会して、彼のナポリ遠征に資金と武器を供与してガリバルディによるナポリ臨時政府樹立に協力して、ナポリ王国によって監禁、虐待、砒素を飲まされた父親のトマ・アレクサンドルの復讐を果たした。1854年「回想録」発表それからも著作を続けた。最後は普仏戦争が始まった1870年にデュマ・フィスの別荘でフィスと家族に見取られて亡くなった。
六十八年の生涯で小説が257冊、戯曲が25冊、前人未到の作品群でいずれもハラハラ、ドキドキの連続で駄作は一つとしてない。しかも彼の小説ではルイ14世、リシュリュー、マザラン、フーケ、マリー・アントワネット等歴史上の人物が虚実取り混ぜて大活躍するのだから面白くないはずがない。彼は「小説工場、アレクサンドル・デュマ株式会社」などといわれて中傷された。確かに彼は多くの助手をこき使って小説を量産したが助手の中でも才能があったとされる七人のうち最もましだったオーギュスト・マケの文章ですらデュマの頭脳を通り過ぎると全く違った輝きを放つ文章になるのである。助手の書いた文章と彼が直した文章を対比させた研究論文があるほどである。彼の小説は大河小説であり並べてみると、ルイ14世王朝時代から16世紀後半の宗教戦争時代を背景にした小説、ブルボン王朝末期から大革命、恐怖時代に至る大革命裏面史的な小説、即ち彼の作品は仏国の歴史そのものなのであった。彼は自己の天才に対する殆ど誇大妄想に近い確信、並外れた金銭感覚、偏執狂じみた女好き、何度生きても返済できないような借金を平気でしてしまう豪胆さ、料理辞典まで作る程の美食家(お陰で糖尿病になって苦しんだが)、そして未だに実態が掴めない程の多作ぶり、など、彼の人生そのものが将に「人間喜劇」であり、もっとも偉大な作品なのだそうである。この時代の三人の偉大な文学者は、周りの皆が嫌になる位尊大だが実際に才能に溢れまくっているユーゴー、必要以上に元気で礼儀知らずの少年のままに生き切ったデュマ、やる事為す事全てが悪い方に転がって行くにも拘らず、そのまま突き進んだバルザック、三人の文豪の作品群は人生を楽しませてくれますぞ。勿論、吉川英治、司馬遼太郎、江戸川乱歩、横溝正史、モーリス・ルブラン、コナン・ドイルも面白いですが、最近は隆 慶一郎にはまっています。
 現在入手可能なデュマの作品は「ダルタニヤン物語・全11巻・三銃士を含む」「王妃マルゴ」「赤い館の騎士」「王妃の首飾り」「黒いチューリップ」で、これらはお薦めです。ついでに「ゼンダ城の虜」「紅はこべ」もどうでしょうか作家は違いますが子供用とは大分違いますぞ。V・ユゴーが書いたデュマのための弔辞も素晴らしい物でデュマそのものを表現しています。これも書くと大幅にページ超過してしまいますので止めにします。
次回はいよいよデュマ・フィスと椿姫ですね。

     歌劇「椿姫」のモデル     橋本聰一
 ミラノのスカラ座といえばオペラのメッカで私など毎日礼拝している、嘘つけ。所が昔は今の日本の音楽ホール(雨の後の竹の子みたいに続々と作られた箱物)の様に経営難で困っていた。フランス革命後の混乱期の後の19世紀の事ですがね。そこに異能の劇場支配人が出現して瞬時に黒字にしてしまった。それを見たパリのオペラ座、ウィーン王立歌劇場いや欧州全ての歌劇場がそのやり方を真似したのだ。どうゆう方法かだって、それがとんでもない方法なのだ。年会員になったら舞台上に居るどの有名な人でも、オペラ歌手はおろか、コーラス・ガールでも、ダンサーでもよい、女の人の了承さえもらえれば金を払って恋人にする事が出来る権利を与える、というのだ。となると、どの貴族も成り上がりの金持ちも皆大金を払って年会員に争って登録して全ての桟敷席や土間席は完売になる、見事な商才振りを発揮したのだ。勿論2階の正面桟敷は王様の席でここに座ると土間席のどこからでも今日は王様が御臨席かどうか判るし皆の歓呼に答えられるのであった。土間席を馬蹄形に取り巻く2階3階のビロードを張った桟敷席では食事をしようと、鍵をかけて女と何をしていても構わない席であった。何より現在の音響学的な研究分析では天井のシャンデリヤや飾り板などが有利に働いて音響効果が非常によく音楽だけを聴くならそれこそ打って付けの席だそうである。この座席販売会員制度はフランス革命後の自由、平等、博愛の精神にピッタリだった。どんな貧乏な女でも自分の女としての能力・魅力一つで金持ちの友達を作り自分も裕福(幸福?)になれ、また伯爵夫人、銀行家の令夫人にもなれる、その上にもっと良い男が現れて望んでくれれば、今の男を捨てて、別のその男に乗り換える事が出来る時代だった。
 「椿姫」のヒロインであるヴィオレッタの実在のモデルとされるアルフォンシーヌ・プレシもそうだった。1824年1月15日生まれ。父は行商人で32歳のマラン・プレシ、母は地主の娘で26歳、祖父は神父の私生児、母の祖母は貴族の娘だったが下男と通じて母を生んだ。アルフォンシーヌにも淫蕩な血が流れていて13歳でナルポンヌ・ブレ子爵に処女を奪われ、農夫や70歳の金持ちとも通じ、16歳の時には母と別れた貧乏な実父に引き取られて一つのベッドで寝て関係を持ち、近隣の人々の非難に耐えかね、八百屋、洗濯屋、洋服屋の売り子を転々とする。次にはグリゼットになり、1839年夏に40歳の男・レノの愛人になる。一年間内にしてグラモン公爵の子息アンジェノール・ド・ギッシュの愛人となる(1840年)。彼は若くて美男子で彼女も本気で愛して、彼は「椿姫」のアルマンのモデルの一人と言われている。彼が彼女を徹底的に貴族的に教育し名前もマリ・デュプレシ(いわゆる源氏名である)と改名する。1841年17歳の時に出産した。しかしギッシュ以外にも男を作り高級娼婦(コルティザン)の生活を始める。18歳でエドワード・ベレゴーという伯爵と本気に恋をする。この伯爵も「椿姫」のアルマンのモデルの一人であるとされている。そしてパリのダンカン通り22番地に住む、このパリの住所がデュマとヴェルディが「椿姫」第一幕として設定した場所である。1844年に20歳で小デュマ及び大デュマの愛人になり(これじゃあ逆親子丼じゃないか)、かたわらロシヤの78歳の貴族ギュスターヴ・ド・スタックルベルグに娼婦生活の足を洗うなら死んだ娘そっくりなので、その生まれ変わりとして面倒を見てやると言われ、多額のお手当てを貰い、娘の様な愛人になる。1845年にはフランツ・リストとも通じて演奏旅行に連れて行って欲しいと言ったがリストはこの病身では無理だと思って一人で旅に出た。
 1845年頃から小デュマとの本気の恋が始まった。その内だんだんとスタックルベルクのお手当ても少なくなる。どうしても貴族と結婚して貴族夫人として死にたかったマリはエドワード・ベレゴー伯爵と1846年2月21日、22歳の時にロンドンで結婚した。しかし病状が悪化して1847年2月3日、23歳にしてパリで亡くなった。
 マリを心から愛していたデュマ・フィスは彼女の死後、僅か一年で彼女をモデルにして1848年に小説を書いて発表した。モデルのある小説ではあったがデュマ・フィスとしてのフィクションを創造した。先ずヒロインの名前をマルグリット・ゴーチェ(オペラではヴィオレッタ)とし彼女の愛人達、ド・ギッシュ、ベレゴー伯爵、そしてデュマ自身の三人をまとめて一人の若者アルマン(オペラではアルフレード)とした。そしてこの愛する二人の離別がアルマンの父親によるマルグリットへの説得によってなされる事が重要な設定となる。自分の娘の結婚に差し障りとなるので息子と別れてくれと言うに至っては見え見えのお芝居だがそれがこの悲劇の根幹になる。その美しくて尊敬すべき高貴な精神を持った一人の娼婦の生涯を非常に現実的に小説として書き上げたからこそ、大衆小説ではなく立派な純文学として当たり、現在まで生き残ったのである。
 このマルグリット・ゴーチェはその季節には常に椿の花を胸元に刺していたと云う、だから椿姫なのである。椿は日本原産で江戸時代にドイツ人の宣教師ゲオルグ・ジョゼフ・カメルによってヨーロッパに持ち帰られてその大きな花の可憐な美しさを愛されて瞬く間にヨーロッパ全体に拡がった。椿は品種改良しやすい性質らしくて現在では世界に500種類もの品種があるようである。椿の花はしおれる事なく、一番美しい時期に急に花がポトリと落ちるので、それに寓意してこの美しくて哀れなコルチザンの一生を表す小説の題名となったと考えられる。
小説はベストセラーにはなったが、デュマは芝居にして、もう一儲けしようと考えた。戯曲は1849年には書き上げられてイストイック座で初演される事になっていたが、劇場が閉鎖になってヴォード・ヴィル座での初演が決定したが、次には検閲にひっかかって上演禁止となった。その理由は娼婦が主役であった事であった。父親のデュマ・ペールが色々と運動をして、宰相モリニーを動かしてやっと1852年2月2日に初日を迎えられた。
 小デュマは後年戯曲の序文で「彼女は本当の心を持った最後のほんの少数のコルティザンの一人で、疑いなくそれ故にかくも早死にしたのだろう」と書いている。
 さてヴェルディはこの作品が戯曲化される前に、フランスに住んでいて仏語に堪能な二番目の妻(実際は結婚出来ずに同棲していた)ジュゼッピーナ・ストレッポーニにこの小説の内容を読んで聞かされて知っていた。しかし歌劇にするには先ず戯曲化されなければならずそれを待つ必要があった。ヴェルディがこの作品をオペラにしようと考えていた事は、1851年に「イル・トロバトーレ」の台本執筆にモタモタしているカンマラーノに(この人は結局最後までは完成せず死んでしまったのですが)、「そんなにこの素材が君の肌に合わないのなら、もっと筋書きが簡単で、甘く優しい素材に変えようか」と提案している事で、このヴェルディの言っている素材が「椿姫」を指しているに違いなかった。
 小デュマは戯曲化するに当たって小説の筋書きに大幅な変更を加えた。それはアルマンとマルグリットの喧嘩別れの場面と、死ぬ間際の再会という、これまた非現実的な場面を創作したのであった。戯曲に於いては第一幕パリのマルグリットの絢爛豪華なサロンの場面、第二幕マルグリットの化粧部屋の場(これはオペラではカットされている)、第三幕のオートイユ(モンテ・クリスト伯の別荘もあった所)にある別荘の場面、ここまでは小説の通りの筋書きである。その後の第四幕オランプの家の立派なサロン(喧嘩別れの場)と第五幕(再会の場、二人が死に別れるお涙頂戴の場面)は小説とは大分違っている。
 ヴェルディは1851年6月に年老いた母親をなくし悲嘆にくれていた、その上彼自身も一生苦しめられる関節リューマチと慢性胃炎に罹ってしまう。しかも故郷にジュゼッピーナをつれて帰ったがために、彼の行動は宗教的、道徳的に受け入れられず、二人が教会に行っても周りには空席が出来たほどであった。かつてマルガリータ・バレッツィと二人の子供と幸福に暮らしていたのを知っていたから当然ではあるが、人々には病死した三人の代わりのジュゼッピーナは受け入れられなかったのだ。1851年12月10日故郷ブッセートを引き払ってパリへ行く。ここでバレッツィに対して「大人の独立した男女が同じ家に住んでどこがいけないか」とまるで椿姫のジェルモンに宛てた様な絶交の手紙を書いている。そして一生住む事になるサンターガタの館に移り住んだのは1852年3月18日の事であった。この愛と世間の目の間でまるで自分の境遇を表している様な二つのオペラ「イル・トロバトーレ」「ラ・トラヴィアータ」の作曲を同時進行して行った。だからどの様に美しいメロディーが現れてもその底には深い悲しみが隠されているのだ。
前者は1853年1月19日にローマのアポロ劇場で初演され、後者は1853年3月6日ヴェネツィアのフェニーチェ劇場で初演された。前者は大成功であったが、椿姫(ラ・トラヴィアータ・・道を踏み外した女)は完全なフィアスコ・大失敗であった。この原因は配役の失敗で、ヴィオレッタを演じたサルヴィーニ・ドナテルリは肺病には見えないほど太ったソプラノだったし、二人の主役の男性は、グラツィアーニは音声障害で、ヴァレーゼは無能であった。しかし丁度一年後の3月18日にヴェネツィアのガルロ・ア・サン・ベネデット劇場で再演された時には大成功を収めたのは当然であろう。
後年ヴェルディは一番好きな作品はどれかと聞かれて「もし私が音楽の専門家ならリゴレットだが、アマチュアならどのオペラにも増してトラヴィアータを愛する」と答えたそうである。これらの文章は色々の本や文献等から勝手に引用しています、お許し下さい。

 

T.ウィンナーワルツ

第1回 ウィンナーワルツ創世記


 ワルツ王ヨハン・シュトラウスIIの父ヨハン・シュトラウスI世は始めヨーゼフ・ランナーやパーマーと楽団を組み演奏が終わると帽子を手に持って金を集めて廻る程 度の楽団だった。しかし魅力的なワルツ(短い序奏と4・5曲のワルツにコーダ・終章が付いたもの)を書いて、素晴らしい演奏をして男女二人で抱き合って踊るワルツの楽しさには人々は勝てず、魅力的な曲を演奏するこの楽団は次第に大きくなっていく。それまでのダンス・メヌエットは集団で踊る事はあっても二人抱き合って踊る事は無かった。それに女性の体に膝や手や唇が当っても足が滑ってバランスを崩した事にしてしまえば何て事は無かった。ランナーは「亜麻色頭」シュトラウスは「黒髪頭」と呼ばれていた。そうなのだ、ヨハンにはユダヤ人の血が流れていたのだった。
ナチスがこの経歴を隠すため戸籍謄本の真実を隠すのに如何に苦労したかNHK特集の番組で見られたことがあるでしょう。ランナーと彼の二人は最初パーマーの楽団に雇われていたが独立して楽団を作りウィーン城壁外のワリッシュ酒場やレブーンと言う酒場で仕事を始めた。この作曲家達は人々を驚かせ感動させる作曲の仕方を体で知っていた、だから夜明けまで演奏して短い仮眠を取ると次の夜に演奏する曲を作り始める。彼らのやり方はこうだ、先ずランナーが頭の中に湧き出る魅力的なメロディーの2・3のワルツを書く、するとヨハンが序奏と終章と補足のワルツを書いて各自が自分の楽器のパート・和音を書き足して一曲が出来あがる。直ちに猛練習が行われ、二三時間で演奏の準備が終わる。その宵には熱狂的な賞賛をもう浴びているのが常だった。ランナーはもっと稼ぐために楽団を二つに分けて一方をヨハンに任せた、これが結果的に二人を分かれさせてしまった。

 父シュトラウスは1825年7月に三歳年下の娘・楽団でギターを弾き歌っていたアンナ・シュトレイムと言う女性と結婚した。彼女の先祖はマドリッドの貴族だったが決闘事件でマドリッドを立ち退き、彼女の父はロッテ・ハーンという酒場を開いていたのであった。と言うより実はジプシーの末裔だったのです。それにスペインでの生活でムーア人の血が混ざっていた。息子ヨハンの母親の生い立ちがどうであろうとも彼の黒味がかった顔色と、あの魅力的な、怨みを含んだ眼差しが良くこれを物語っている。しかし彼の楽才はこの母親の血に負うところが多いのだ。結婚して14人のオーケストラを指揮してウィーン全市を征服し、彼の毎夜は全部予約済みだった。父はスペールやアポロザールというダンス場と専属の契約をして多忙だった。そしてヒルシェンハウスに住む母には、ヨハン、フェルナンド、ヨーゼフ、エドワルトと二人の娘ネルリとテレザが生まれた、フェルナンドは早世したが。父にとって一番必要なのは喧騒極める家庭から逃れて楽しい音楽を作ることだったがそれは無理と言うものであった。彼は明けても暮れても仕事に追われひどい時には三つのオーケストラを違う所で指揮する事になった。当時の記録によるとアポロザールには五つの大舞踏室、44の大広間、3個の温室と13の厨房、珍しい草花や植物、大きな滝と岩窟、花の咲いた潅木があの寒いウィーンの冬の最中にさえ緑化された楽園、しかもあちこちに多くの妖しげな個室までしつらえてあったという、この後で出来たスペールはもっと規模が大きかったそうである。ウィーンの音楽界はヨハンとランナーに二分されたが二人はお互いに尊敬しあって友情を取り戻していた。1830年秋ショパンが演奏会を開きに来たが成功せず両親にいまいましげに「ウィーン人はかたい音楽に耳を貸す暇はありません、ランナーとシュトラウスがワルツ以外は音楽でない状態に聴衆達を夢中にさせているのです」と手紙を書き送っている。それから2年経って19歳のワーグナーがやって来た。「ワルツはアルコールよりも強い麻酔薬で空中に漂う瑞々しい旋律の法悦境である。ただ最初の一節だけで人々は情熱を燃やし驚くべきシュトラウスの身体、人の心をとろかすヴァイォリンの音は私を完全に参らせてしまった」と書き残した。又ライプチッヒでの演奏会の後に一人の見知らぬ礼賛者が楽譜を見せてくれと話をしに来たが、それは父ヨハンの良き理解者メンデルスゾーンだった。

 当時一家は城壁外のヒルシェンハウスに住んでいたが、父シュトラウスはヨハンとヨーゼフにピアノを習わせるのには反対しなかったが音楽家にさせるのには絶対反対だった。ヨハンもヨーゼフもABCより先に二分音符を五線譜に書き付けてその意味を知っていた。しかし父はこの職業ほど、血と涙でパンを得ている者はない、涙で濡れたパンを食べ、月桂冠の成果は茨の藪から摘み取ったものだった(今の日本の医師もそうですが)。一つの舞曲が失敗する、一つの指揮がまずく演奏が失敗するだけで、音楽の都ウィーンでの生命が永久に滅びるのを余りにも深く知りすぎていたのであった。しかし4年間も工業学校に行かされながら子供のヨハンは音楽を諦めなかったし バイトをしてヴァィオリンを買い求めてこっそりと父には内緒で父のオーケストラで第一ヴァィオリンを弾いていたアモンの指導を受けていた。アモンはヴァィオリニス トにとってその容貌、表情、態度が最も大切だと信じていたので、ヨハンを鏡の前に立たせて思い切りしゃれた伊達者スタイルでヴァィオリンを弾く練習をさせた。ある日魅力的なスタイルで夢中に練習している所に父が飛び込んできて折角のヴァィオリンを叩き付けへし折ってしまった。父のヨハンは多忙と生活の喧騒に悩み疲れ果てていた、そこに仕立屋に勤めるエミリー・トラムプッシュという孤児を知って彼女に魅かれて行く。終に同棲して演奏旅行には同伴するようになる。彼はヨーロッパ中を演奏旅行して遂には英国にまでも出かけたが病で死にそうになって帰国した。しかし元気になって今までよりも多忙を極めエミリーと住む家も念願の城壁内の旧市・ここに住む人は一部の貴族か富裕層の人だった(現在は城壁は壊されリングストリートになっている)に買い求めた。

 父ヨハンの家出により、息子ヨハン(シャニーと呼ばれていた)が好きな音楽の道に進むには何の障害もなくなったが、母は息子の学校教育をし、教育が終わるとシャニーは一家の生計の道を立てねばならなかった。シャニーは先ずケルントネルトール劇場の指揮者だったコールマンのもとでヴァィオリンをみっちり学び、対位法と楽典とを優れた二人の教授、ホフマンとドレヒスラーから教わった。後者は彼にとって恩人で世俗的作曲家としても成功していたが、宗教音楽にも造詣が深くウィーン市立教会の合唱団長も兼ねていた。彼はヨハンが有る程度勉強が出来るようになると、頭の中にワルツやポルカが湧き上がってきているのを見て取り、オーケストラを指揮する免状を申請してやった。

  息子ヨハンは14人の楽団員を集め6ヶ月の猛練習をして遂に1844年10月始に4曲のワルツ、2曲のカドリーユ、3曲のポルカを持って華々しい初舞台を踏む 事になった。2日前に貼られた広告がウィーン始まって以来の雑踏を引き起こした。
それはドムマイヤーのカジノの広告で、その真ん中に夜会舞踏会の案内が大きく書かれていたのである。ヨハン・シュトラウスの息子が始めて彼のオーケストラを指揮して演奏する事になった、6時開演と言うものである。ヨハンは仰天した、敵と言うより相手が自分の息子だったから心配が先に立った。市民は父子がどんな態度に出るか、演奏が成功するか興味深々だった。当日ドムマイヤー周辺は詰め掛ける馬車で埋め尽くされた。ドムマイヤーの内部は立錐の余地もなく、給仕は歩く事も出来なかった。ドムマイヤーの周りは人の波で埋もれてしまった。この中には息子の失敗を書きたてるつもりの新聞記者や二流の舞曲を聴きながら青二才の失敗を見て乾杯をする楽しみを密かに抱きながら楽譜出版屋のハスリンガーの姿もあった。水を打ったように静まった時間にいよいよシャニーの登場である。彼の痩せ型の黒い姿はいかにも上品で落ち着いた印象を与えた。嵐のような拍手が起こった。親愛と敵意の感情の渦巻きが彼の頭上にのしかかった。いよいよ冒険が始まった。彼はヴァィオリンを鋭く弓で叩いた。「ボルティチの唖娘」はそれ程でもなかった。次の自作の新ワルツ「ごひいきに」が始まるや、当夜の偉大な試験が始まった。聴衆は、突然湧き出た鋭い、しかし瑞々しい旋律に呆然となった。この曲が終わるや否や狂喜した歓呼の声にドムマイヤーは埋め尽くされた。人々は椅子に立ち上がり、手を、ハンカチを、振り回して狂喜した。ヨハンは何度もこの曲をアンコールした。彼は弾いて弾いて弾きまくった。
蒼白であった彼の顔は紅潮し、目は炎の様に燃えた。「短い詩」「初舞台のカドリーユ」「随喜のポルカ」など5回10回とアンコールされ静まるところを知らなかった。歓喜と自信に燃えたシャニーは再びヴァィオリンを顎に当てた時、彼はこの夢の様な勝利に酔っているだけではなかった。湧き立った聴衆に与えられたのは何と彼の新作でも編曲でもなく父の曲であった。偉大なウィーンの賛歌「ラインの響き・ローレライ」この曲はその春作られ人々に一番愛されたこの世で一番美しい曲だった。
人々は彼の気持ちを理解した。女は啜り泣き、居並ぶ男さえ皆目頭を熱くしていた。
彼はそれをかってなかったほど立派に例えようもなく美しく演奏した。喝采はドムマイヤーを震わせ、新作は何度も演奏された。みな半狂乱になっていた。これを片隅で見ていた母親は息子を抱いて喜びに泣き崩れた。息子シュトラウスは父親と同様にウィーンの一樹一草まで賞賛を強要することが可能だったのだ。「放浪者」と言う雑誌の文芸記者のウィーストは「辻馬車で家に帰る途中、ランナーの家の前を通る時思わず手を振って・・おやすみランナー君!今晩は、老シュトラウス君!君には、おはようだったね、若いシュトラウス君!と叫ばざるを得なかった」と書いている。

 若い指揮者とオーケストラは成功した。極めて短時間にウィーン市街を征服してしまった。演奏の契約は殆ど見通しがつかないほど多くあった。彼が少年時代に愛した少女レザール・シュトルベルが死んだ時に彼女のために新しい曲を演奏したと言う噂があったが、それは彼の成功を高めるのにふさわしいものであった。息子ヨハンは父を尊敬し家庭に帰ってきて欲しいと話し合ったが父は帰らなかった。しかし二人の間に心理的わだかまりはなくなった。1843年に死んだランナーは第二市民軍軍楽隊長だったが、息子がその地位に就いた。1845年は父にとって全盛期だった、ずっと以前からの第一軍楽隊長に加え新しく王宮舞踏会管弦楽団の指揮者に任命された。
この舞踏室はスペールなどとは比べ物にならない位、高尚で落ち着いていた。今もその部屋は見学出来るが見る影もない。彼は戦勝して凱旋してきたラデッキー将軍のために新しい曲を書くことを命じられた。グラチスの酒場で王の一族と彼の仲間だけの演奏会で新しい「ラデッキー行進曲」を初演した。突然熱狂的喝采が湧き起こった。
そこにいた黒と金の象徴的な衣装を着けた大女優のヘレーネ・テノオーラ夫人が感激の余りその喧騒の中で静かにヨハンに腕を与えた。シュトラウスの瀟洒な夜会服と夫人の衣装はまるでオーストリア自身の化身の様な強い印象を与えた。これを境にこの国は没落に向かう、そして父ヨハンも。この曲を頂点に、一つの星は光を失い、他の星(息子)は輝き始めた、と書かれている。

 父シュトラウスの時代は終わりに近かった。ハイデルベルグの学生達は彼の演奏を侮辱し始めて、勇気と希望の消滅を祝う凱歌である、等と言われていた。1843年父ヨハンは再び旅に出た。英国に渡ってメッテルニッヒの前で演奏した時、没落した独裁者、亡命した専制者は、ウィーンの音楽が彼の耳に蘇って来ると、その場に泣き崩れてしまったと言う。ウィーンの人は常にシュトラウスのワルツと共に泣けるのだそうである。メッテルニッヒが許されてウィーンに帰ってきた時、最も喜び迎えたのは父ヨハンだった。

 9月16日にウンゲルのカジノでヴァィオリンを取り上げて顎に当てた時、右手に持った弓が真っ二つに折れてしまった。彼の調子はよさそうだったが、演奏自体は悪くてやり直したが、第二回目が始まって直ぐその場に気を失って倒れてしまった。それから9日後に彼は死亡した。シュトラウスI世は1849年9月23日朝2時45歳で世を去った。駆けつけたアンナと息子は古いベッドに横たわる父を見つけたが傍に卑しいエミリーの姿はなかった。ウィーンの人々を興奮の坩堝に放り込んだ男の葬儀は、国を挙げて壮大に行われ果てしのない人々の行列が彼の棺に続き三つのバンドが悲しみの曲を演奏した。彼はデブリンの墓地にヨーゼフ・ランナーと並んで葬られた。当然だが父のオーケストラは息子が指揮する事になる。父の形見の品々はエミリーから相当高価に買わなければならなかった。現在ナクソスからシュトラウスI世のCDが録音されて全集が出来る予定で今のところ3枚目までが発売されています。
 

第2回 ヨハン・シュトラウスII世


 6月3日は彼の命日である。数年前彼の没後100年の記念コンサートが各地で催され、記念のCD集が売り出されている。彼は1825年に生まれたが、その日は明確ではない。

1899年5月22日マチネーで「こうもり序曲」を指揮していた彼は突然、悪寒と発熱を訴えて帰宅し、肺炎に罹り一時小康を得たものの6月3日4時15分妻アデーレの「少しお休みになったら」と言うのに答えて「どっちみちそうなるだろう」と言ったのが最後の言葉になった。彼の葬儀はオーストリア・ハンガリー帝国、特にウィーン市民の悲嘆の中、盛大に行われた。

 私は小学生の頃から4歳の時に戦死した父が残してくれた沢山のSP童謡の中に混じっていた「青きドナウ」「ウィーンの森の物語」「南国のバラ」「芸術家の生涯」を何とはなしに聞いて大変気に入っていた。それらは25cm盤で後者二個は表裏の抜粋になっていたからこれがそんなに有名な曲だとは思っても見なかったし当然小学生の僕は作曲家の名前も知ろうとはしなかった。ただ聞いて大変美しい曲だとは思ってはいたが。Jシュトラウスとはっきり意識して聞き始めたのは高校生時代からで、大学生になった時にはシュトラウスのお陰で岡田正(あきら)君・元阪大病院長・現母子医療センター総長と親友になれたと思っている。先日も岡田君に、そんなに好きなら彼が作曲したワルツを20曲挙げて見ろ、と言われて考えたが二人でも20は出てこなかった。

 ヨハンは毎年ウィーンからロシヤまで開通した鉄道会社との契約で夏にロシヤのサンクト・ペテルブルグのパーヴロフスクで演奏会を開いて儲けていた。彼には演奏の予約が二重三重にある事もよくあり精力的にこなしていたが、さすがに疲れが出たのか、銀行員だった弟のヨーゼフ、エドワルトの二人にも作曲と指揮の勉強をさせてデヴューさせた。彼はヨーロッパ各地からアメリカにまで演奏旅行をして、魅力的な姿で格好よくヴァイォリンを弾きながら指揮をとる独特のスタイルで当時の人々を熱狂陶酔させ、踊り狂わせたのでした。

 パリ博覧会の時の演奏についてパリ市民は狂喜し、批評家は「我々は今までワルトトイフェル(女学生、金と銀、スケーターワルツ等で有名)位立派な作曲家はいないと思っていた。ところがJシュトラウスを聞いて、今まで完全だと思っていたワルツは一体何だったんだろう。シュトラウスのワルツこそ本当のワルツなんだ」と書いた記録が残っている。

 ブラームスも彼の賛美者の一人で扇に「青きドナウ」ので出しの一節を書き彼の夫人に渡し「私にはこんな曲は書けません」と言ったという有名な話や、Jシュトラウスが「くるまば草序曲」の練習をしている所にやってきて、フルートの独奏部分に、思いつくままのメロディーをヴァィオリンのパートを加え二重奏に書き変えた。ところがそれがこの曲に非常に効果的だったので未だにそのままの形で演奏されている。

 ワーグナーも彼と親交があり、彼の曲を演奏し「古典音楽はバッハ、ベートーベンからJシュトラウスに正統に受け継がれている」と記載している。又ヨハンも歌劇「ニュルンベルグのマイスタージンガー」の初演の二日も前に自分の演奏会で序曲を演奏させてもらっている。ウェーベルン、シェーンベルク、ベルクもJシュトラウスの曲を自分流に編曲して遺しているし、そのCDも発売されている。

 Jシュトラウスの非凡な点を如実に示す例があります。ビゼー作曲「アルルの女」第二組曲の終章のファランドールを聴くと二つのメロディーが同時に演奏されてそれが渾然一体となって見事に我々を興奮の極致に落とし込むのですが、ヨハンも同じくそれをオペレッタ「ヴェニスの一夜」でやってくれています。先ず一つのメロディーを合唱で聞かせ、しばらくしてテノールのアリアで二つ目の全然違うメロディーを聞かせて感動させた後にフィナーレでこの二つのメロディーを破綻させないで重ね合わせて同時にて聞かせる(楽譜参照)、しかもそれが非常に魅力的だという点ではどの有名な作曲家でも困難でしょう。「ヴェニスの一夜」ではテノールのソロと合唱で二つのメロディーを奏でるのですが、オーケストラ曲としては「ヴェニスの一夜」の抜粋曲「入り江のワルツ」で同じところが聴けますよ。即ちシュトラウスll世もビゼーと同じくミューズの神様の祝福を受けた人だったのだ。

 ヨハンは父が死ぬとウィーンの人気を一身に集めワルツ、ポルカ、行進曲、カドリーユ等作りそして毎夜のように「ゾフィエンザール」や「オデオンザーレ」などの舞踏会場で開かれる舞踏会で身を粉にして演奏した。彼にも浮いた話は色々あったが結婚した相手にはウィーンの人々を驚かされた。女達は頭から冷や水を浴びせられた気分になってヒステリックな反応を示した。古くからの親友ハスリンガーのところに1862年8月末、青天の霹靂のようにたった十二行の手紙が送られて来た・・・明朝7時、聖ステファン教会に於いて結婚式を挙げる。どうか介添人になって頂きたい。・・・と書いてあった。結婚する相手はヘンリエッタ・トレフツ夫人(愛称はジュッティー)、何とこの人が万人から選ばれた唯一の女性だったとは。彼女は勿論美しく、愛嬌があり気品と教養を備えた女性であったが、ヨハンより10歳年長でその上既婚で息子一人の母だったのだ、そして結婚するまでは一流の有名なソプラノ歌
手であり大衆から敬われていたが、既にユダヤ人の資産家トデスコ男爵の妻だった。ヨハンは男爵の舞踏会の指揮を頼まれ始めて逢って二人の情熱は燃え上がり、遮二無二、電光石火、離婚させて結婚式を上げ同居した。しかしこの結婚はヨハンにとっては大成功だった。あらゆる成功と人気を手に入れていた彼は宵越しの金は持たぬ性格で湯水のように使っていたが、彼自身が転換期に指しかかっていたのをよく自覚し、世の中の酸いも甘いも知り抜いていた夫人はシュトラウスに最も欠けていた紳士的で上品な言動・金銭的才能にも使い方で補って余りあった。ヨハンを親兄弟のいる薄汚い「ヒルシェンハウス」から王室舞踏音楽長にふさわしい家を買いよい趣味で家を飾り、社交を整えた。彼女は貴族達に運動して彼をこの地位につけたのだった。彼は弟二人に指揮を任せて作曲に専念出来た。

 パリのオッフェンバックが人気のオペレッタの一座を引き連れて乗り込んできた時「夕刊ワルツ」を披露した。これに対抗してヨハンは「朝刊ワルツ」を作ったが、現在では「朝刊」はよく演奏されるが、「夕刊」の方はすっかり忘れられている。

 ヨーゼフは兄が家を出て自分がコロリン・ブルックメイヤーと結婚しても母と一緒に住み一女をもうけた。ヨーゼフは兄と同じく才能を持っていたが性格は全く逆で、ヨハンは長調で陽気、ヨーゼフは短調で陰鬱、ヨハンは気分屋、ヨーゼフは全力を尽くして最後までやり通すタイプだった。始めてオーケストラを指揮したときも「最初にして最後」と言うワルツを作って演奏したが、これが17年にも及ぶ音楽活動の始まりだった。残念ながら非常に魅惑的な曲を290曲も作ったが脳腫瘍のためロシヤのパーヴロフスクにおける演奏会で指揮中に舞台から転落して夭折した。ヨーゼフの全作品をナクソスのCD26枚で聴けますよ。

 オッフェンバックは非常に軽快で甘美な、しかも野卑で下品で開けっぴろげの陽気な音楽と卑猥なカンカン踊りを引っさげて登場して10年間はウィーンを占領してしまった。彼のウィーン音楽への影響は激しく、熟練した技巧と悪どく卑猥なユーモアは、どんな薄のろまな人間をも面白がらせて人気者になった。しかしオッフェンバックのヨハンに云った一言・「君もオペレッタを作ると良いよ」が歴史を大きく変えて微妙な働きをする。始めにオッフェンバックを見習ったのはズッペだった。しかし脚本が悪くて王座は長続きしなかった。

 妻は勿論皆がヨハンに喜歌劇を書く事を薦めたがヨハンは自分がワルツこそ彼の生命である事を一番良く知っていたのだ。しかし「ウィーンの陽気な女房達」という脚本を見たヨハンは猛然と作曲を始めた。彼の脳裏に音楽が湧き上がるとどんな王侯貴族と食事をしていても、友人と談笑していても五線譜を書いて浮かび上がったメロディーを書き付けた。

妻ジュッティーは彼の作曲した物を歌ってみて歌詞に合っているか確かめた。そしてより良い物へと向上させた。しかしこの曲は上演されなかった。実はプリマドンナが監督と喧嘩して彼女抜きでは上演できずに立ち消えになってしまった。次に「インデイゴと40人の盗賊」を作曲した。これはアン・デア・ウィーン劇場で上演された。
これは大成功で「マイスタージンガー」よりも評判はよく、ハンスリックまでもが充分楽しめると批評した。しかし現在は上演される事なく「千一夜物語」としてワルツの一部を聴くことが出来るだけである。次に書いたのは「ローマの謝肉祭」であり1973年3月1日ウィーン大博覧会に合わせて上演されこれ又大成功だった。

 エドワルトも文学者で、ギリシャ語、ラテン語、教養豊かで最初から音楽家ではなかったが非常な努力でプライヤー、ゼヒターのもとで理論を、フランツ・アモンにヴァィオリンを習いその上ハープ演奏までヨハンの勧めでものにした。1859年2月ディアナ・ザールで催された大舞踏会で三人が一曲づつ指揮した、のが彼のデヴィューであった。これからヨハンを除く二人が王国に君臨する。

 一方ヨハンには新しい喜歌劇「こうもり」の台本が持ち込まれていた。これは最初ベネディックスという人が書いた「牢屋」を改作して「真夜中の晩餐」となり、アン・デア・ウィーン劇場の監督シュタイナーがこれはシュトラウスには最適の台本になるとハフナーとゲネエに改作を依頼して全くのウィーン風の上品さと風刺の効いた台本に仕上げた。これを見せられたヨハンは「こうもり」の作曲に熱中した。出来上がった作品を最初に歌ってくれて推敲(楽譜の)をしたのは当然ながらジュッティーで長年の歌手としての経験からアリアの隅々まで歌いやすく、しかも魅力的に作り上げた。彼らが考えた事は本当だった、大成功したのだった。ヨハン41歳の時で一番脂が乗っていたから当然だった。しかしある夜、彼が演奏会から帰ると家が妙にざわめいていて雰囲気が違った、ジュッティーが蒼白になって倒れたのだった。あらゆる手が尽くされたが妻は天に召されてしまった。

彼は悲嘆のどん底に落とし込まれた。彼女はウィーン市民の悲しみの中、手厚く葬られた。ヨハンを大音楽家にしたのは実に彼女の深い愛と理解と賢明な家計の運営、それに上流社会へのヨハンの導き入れがあったからだと市民は疑わなかったのだ。

 しかし市民は驚いた2月も経たない内にヨハンはコロンヌからやって来た歌姫アンジェリカ・ディートリッヒ嬢(愛称リリー)と結婚したのである。彼女を選んだ事は結果として大失敗だった。25歳も年齢が若いリリーはヨハンを老いぼれと罵る様になり4年後には若い男と駆け落ちしてしまった。ヨハンの面目は丸潰れになった。ヨハンは今度はヒルシェン・ハウスの向かいの家に住んでいた税理士の息子の嫁で夫に若死された未亡人のアデーレと同棲を始めた。離婚をカトリックは許さないので、名誉市民で税金免除と言う特権を捨てて中部ドイツの小国ゴータ国籍を取り、家を買って税金を納め、結婚した。ヨハンは再びそ知らぬ顔をして二人でウィーンに舞い戻って活動を再開した。アデーレは賢明な女性で広いウィーンの邸宅でヨハンの作曲を邪魔しないように行動し、来客、若い音楽家達、例えばシュランメル兄弟、ファールバッハ、カ−ルマン、ピアノ職人のベーゼンドルファーをもてなしてヨハンを作曲に専念させた。

毎年の新年シュトラウス一家の作品を主とした演奏会を戦後始めたのはクレメンス・クラウスであったが、彼が米国で急逝したため急遽指揮台に立ったのがコンサート・マスターをしていたウィリー・ボスコフスキーだった。彼はヴァィオリンを弾きながらウィーン・フィルを指揮したシリーズがありこのCDが一番颯爽としていて爽快で典雅でシュトラウスらしいと思える。クレメンス・クラウスの3枚組みもあり、それがウィンナ・ワルツの本流で神髄だという人もいるが今となっては録音も古いし、演奏も古風蒼然とした感じを私は受けます。矢張りボスコフスキーがお薦めであろう。
5・6年前100周年と云う事でウィーン・フィルのJシュトラウスという11枚組み(指揮者はカラヤン、マゼール、ボスコフスキーと色々但し最期の11枚目はラデッキー行進曲ばかりでうんざりする)又シュトルツ指揮の11枚のJシュトラウス全集、果てはスロバキヤ交響楽団をディートリヒ指揮したJシュトラウス全480曲でこれはウィーンと英国のJシュトラウス協会の推薦盤で詳しい解説がついています。同協会は会員は作品番号を貰うので480人しか居ません。

Jシュトラウスには他にオペレッタ15曲、歌劇1曲、バレエ一曲(未完)があります。

これらの内CD,LD,DVDで入手できるのは「こうもり」「ジプシー男爵」「ヴェニスの一夜」「千一夜物語」「シンプリチウス」「ウィーン気質」とバレエ「シンデレラ」ですが最後の二曲は遺作で原曲をつなぎ合わせたり、加筆して完成したものです。
 

 第3回 ヨハン・シュトラウスU世の主な作品群


Zur goldenen Ende 7区 Lerchenfelder 街 15 のビルには銘板が掲げてあり、この地にヨハン・シュトラウスU世の生家が建っていた。1825年10月25日生まれ、ウィーン男声合唱協会の名誉会員と書かれている。ヨハン・シュトラウスの作品のうちで主なものについて歴史や風俗にも考察を加えてみました。「またか」等とは言わずに読んでみて下さい。岡田 正・元大阪大学病院長先生にそんなにヨハン・シュトラウスが好きなら彼の作ったワルツ20曲名前を挙げてみろと言われたのでとりあえず答えを出します。

@ 加速度(1860.2)作品234

ヨハンは色々の団体から頼まれて舞踏会で演奏するためのワルツを書いた。この曲は「ウィーン工科大学生のために書かれて捧げられている。その他にも軽騎兵、騎兵、芸術家、慈善事業団体、市民舞踏会、勿論、皇帝や王室にも色々作曲している。この曲は第二のワルツを冒頭にゆっくりと始めアッチェランド・加速度して第一のワルツに突入する魅力的なワルツで、今も定番でよく演奏される。

A 朝刊(1864)作品279

1864年のカーニバルでジャーナリスト・作家協会の第二回舞踏会のためにヨハンは新しいワルツの作曲を依頼された。第一回目にはワルツ「社説」を発表していた。今度はパリからオッフェンバックがオペレッタ「ラインの水の精」を引っさげて乗り込んできた上この舞踏会にワルツ「夕刊」を献呈していたのであった、ヨハンは大変注意深く作曲し曲の中での調和と対比に気をつけた。ヨハンがトロンボーンを使ったのも、オッフェンバックがカンカンをトロンボーンに歌わせたからだそうである。1月12日のゾフィエンザールでの舞踏会では多くの曲と共に「夕刊」と「朝刊」を続いて演奏されたがどちらにも大喝采が起こった。翌日の新聞にも好意的な批評だったが、次第に「夕刊」は演奏されなくなり「朝刊」はニューイヤーコンサートのスタンダード・ナンバーとなっている。

B 宮廷舞踏会(1865.)作品298

ウィーンの舞踏曲の指揮者達は最終目標を宮廷舞踏会、議会舞踏会での指揮をさせてもらう事で、その時には宮廷舞踏会のためのワルツを書くのが常であった。ヨゼフ・ヴィルトがこの位置についていたが彼は1814年のウィーン会議以来1831年に死ぬまで独占していた。父ヨハン・シュトラウスは1832年にワルツ「宮廷舞踏会」を作曲してこの地位に就いた。1840年にはヨゼフ・ランナーが「宮廷舞踏会」を書き、1852年にはフィリップ・ファールバッハが「宮廷舞踏会」を書いて就任した。ヨハンに順番が廻ったのは1862年の事であった。しかし正式な宮廷舞踏会の楽長就任には1863年まで待たなければならなかった。ヨハンは1865年2月22日に王宮のリッターザールでの演奏会でこの曲を披露したが、その後も序奏とコーダを推敲し直して、正式なオーケストラ版が出版されたのは1866年1月の事だった。このワルツがヨハンにとってどれほど精魂込めて作曲したかが判るという物で、ヨハンの全作品の中でも傑作とされている。

Cウィーンのボンボン(1866.1)作品307

 ヨハンは徐々にワルツの作曲をしなくなり始め、オペレッタ、オペラ、バレエに興味をそそられていた。当時パリ駐在オーストリア大使メッテルニッヒ公爵夫人はパリに病院を慈善事業として建設してやる予定であった。その募金のためシュトラウスにパリで演奏会を開き新しい曲を作る様にとの要請があったので、ヨハンはワルツ「ウィーンのボンボン」をジョーゼフはポルカ・マズルカ「パウリーネ・作品190」を夫人に献呈した。この作品はウィンナワルツの伝統を崩さずに形式には新しさを加えウィーン的でなおかつパリの雰囲気を漂わせた名曲でワーグナーはマイスター・ジンガーにこの曲のメロディーを取り入れていている。「何だって、ワーグナーがJシュトラウスのメロディーをチョット拝借しただって?」僕は許せん!!!

D美しき青きドナウ(1867.2)作品314

 これについては別に稿を改めて書きます。

E芸術家の生涯(1867.2)作品316

 この曲は「美しく青きドナウ」と殆ど同じ時期に作曲されたものでハプスブルグ家がケーニヒスグレーツの戦いに敗戦し苦渋に満ちた時代のものである。ヨハンとヨーセフは悩みのない生きる喜びが故郷に戻ってくる事を強く求めて、一連の優れた作品を書いて人々を元気付けた。1867年2月18日に芸術家協会がディアナバート・ザールで彼らの舞踏会をするのに合わせて作曲したもので、このワルツの中で芸術の品位という彼独自の高邁な考えを表現し彼自身の指揮で初演した。1867年のパリ万国博覧会でも演奏し有名になった。彼の妻ジュェッティは家族に「パリの人々はこのウィーンの音楽に熱狂しています」と書き送っている。

Fウィーンの森の物語(1868.6)作品325

 ヨハンは一度もウィーンの森に散歩に出かけた事はない、それどころか馬車で森を通過する時には窓のカーテンを閉め眼と耳を塞いでいたそうだ。そうトンネルや崖が怖ろしかったのだ、それ程ウィーンの森は鬱蒼と茂って深かったのだ。この2年前にドナウ帝国がプロイセン(ドイツ)との戦いで敗戦していたので、士気を高揚させる必要を感じ愛国心を顕すために作ったのがこの「ウィーンの森の物語」である。ここでいう物語とはメロディーの事で、エンス河畔地方のオーストリア固有の民族楽器ツィターを有効に使って作曲している。ヨハンはウィーンや聖ペテルブルグのパーヴロフスク(ウィーンからここまで鉄道が開通していた)での演奏では良くツィターをオーケストラの独奏楽器として使っていたがこの曲での使い方は非凡である。ツィターを使わない時はヴァイオリンの二重奏で演奏するように作曲した、この方は少し聞き劣りがすると思うがどう思いますか。このワルツは舞踏ワルツではなく演奏会用ワルツである。この曲は1868年6月19日フォルクスガルテンの演奏会で初演され、数日後ウィーン男声合唱団によって再演されたがどちらもヨハン自身がヴァイオリンを弾いて指揮をした。彼は同じ演奏会でワーグナーのマイスター・ジンガーを演奏したが、このワーグナーの様な新しい曲がシュトラウス兄弟の作品と肩を並べている事実はシュトラウスの曲の値打ちが音楽史上に占める重要性が如実に示されている、現在も彼の作品が世界で通用するのも至極当然な事であると言えよう。この楽譜の表紙にはホーヘンローエ・シリングスフュルスト家のコンスタンチン公爵に捧げられたと書かれている。この公爵家の夫人はなんとフランツ・リストの長年の愛人に産ませた娘であったのである。ここの家庭での個人的な集まりで初演されたものである事は「この曲に非常に感激したので記念品を贈る」という手紙が残されているからである。当然ではあるがウィーンに於いて大好評で短時間の内に世界中で演奏されるようになった。

G酒女歌(1869.2)作品333

 1867年のカーニバルで「青きドナウ」で大成功を収めたウィーン男声合唱協会はこれを十八番にしていた。次の機会は1869年のカーニバルにやって来た。これはワルツを最初からオーケストラとの合唱曲として作られた。「酒、女、歌を愛さない者は、愚か者である」マルチン・ルターがチューリンゲンのヴァルトブルグに滞在していた時に書いた有名な文章に霊感を得てヨーゼフ・ヴェールが書いた詩に音楽をつけた。2月2日に行われた仮装音楽会で初演されたが大成功で彼と妻のジュェッティは巡礼者の仮装をしていたが何度も歓呼に答えるために立ち上がってお辞儀をしなければならなかった。オーケストラだけの曲は173小節の長い立派な序章を持っていて3月29日ブダペストで初演された。尚この春ヨハンは皇室、王室のオペラ劇場の管理者に昇進した。

 話は変わりますが、当時の宮廷では紳士・男子貴族は燕尾服を着用し、女子はローブ・デコルテを着用することを求められた。ルイ14世がデコルテは年齢にかかわらず乳房の半分以上は露出すべしという命令を出した。中世以前から教会は毎年のように教会の礼拝に来る女性は乳房を布で覆わねばならない、という命令を出していたからトップレスは西洋では日常茶飯事の服装であったようである。若い女性が社交界にデビューする時この様な恥ずかしい上半身丸出しに近い服装をさせられるのに非常な屈辱を感じたという。この舞踏会が結婚相手を探す格好の場を提供していたのはいうまでもない。年のいった女性は垂れ下がった乳房を押し上げるようなコルセットを着用した。これを着てワルツを踊るのであるし、宮廷ですらそのようだったから庶民に至っては推して知るべしとなる。(H.P.デュル著・挑発する肉体)

 

第4回 ヨハン・シュトラウス作品・続き


H千一夜物語(1871.3)作品346

 オペレッタ「インディゴと40人の盗賊たち」はヨハンの非常な努力で作曲された。そして1871年2月10日アン・デア・ウィーン劇場でヨハン自身の指揮で初演された。プリマドンナはマリー・ガイスティンガーが演じた。しかし脚本がまずく音楽は東洋的ではなくウィーン風だった。即ち失敗作だった。しかしワルツ「その様に人々は歌う、私が生まれた町では」が始まるとあちこちで歓声が上がり桟敷席や特別席の人は踊り始めた。ヨハンはこの時だ、と感じて第一ヴァイオリンの手からヴァイオリンを奪うと自身で弾きながら指揮を始めた。「今こそ自由に心から歌わせて!」「自由が笑う」などのアリアは躍動感溢れるもので華やかなコーダで終わる。これらを集めて曲にしたワルツ「千一夜物語」は1871年3月12日初演されて大成功を収めたのは当然ともいえる。

Iウィーン気質(1873.4)作品354

 この年ウィーンはハプスブルグ帝国は皇女ギゼラとバイエルンのレオポルド王子(ルードヴィッヒU世でワーグナーの保護者・バイロイトに楽劇場を建て、美しい城を作った)の結婚式の婚礼のための色々趣向を凝らした慶事で沸き返っていた。宮廷歌劇場も舞踏会を開く事にしたが楽友協会ホールの黄金の間で先ずウィーンフィルがウエーバーの「舞踏への勧誘」オットー・デゾッフの指揮で演奏した後、ヨハンはこの舞踏会のために作ったワルツを初演するために指揮台に上った。この曲はヨハン特有のウィーン風旋律と豪華で典型的舞踏会のワルツであった。次の日の新聞には「この作品は真のウィーン流儀たっぷりとした旋律と興奮を巻き起こすリズムに溢れている」「この曲には新鮮で自由で本物の赤いウィーンの血が渦巻いている」と書かれ、ヨハンの死後作られた同名のオペレッタの主題歌にも使われている。

Jシトロンの花咲く頃(1874.5)作品364

 喜歌劇「こうもり」のウィーンでの初演が大成功したのでヨハンは1874年5月1日イタリヤへの演奏旅行に出発した。この旅行のためにヨハンはゲーテの有名な詩の冒頭の部分「君知るやシトロンの花咲く国を」から取った題名でイタリヤの聴衆のためにこの上なく美しい曲を丹念に作曲した。ウィーンでは同年6月10日園芸協会花のホールで初演された。当時の人気ソプラノであったマリー・ガイツィンガー(1833〜1903)のためにオーケストラ伴奏のコロラトゥーラ用にリヒヤルト・ジュネーが詩を作りヨハンが編曲して6月27日初演された。当時の新聞には「このワルツの主題は見事精巧に練られていて全般に流れる叙情的なトーンは匂い立つ様な繊細さでガイツィンガーは情感豊かにコロラトゥーラを歌い上げたが、終わっても再度歌い始めるまで拍手は鳴り止まなかった程、観客の熱心な支持を得た」と報道された。後でオーケストラ曲に編曲された。

K南国のバラ(1880)作品388

 ヨハンは1879年にボーアマン・リーゲンが書いた台本によるオペレッタ「女王のレースのハンカチーフ」の粗筋を聞かされ、音楽的霊感を得て作曲した。この曲は1880年10月1日にアン・デア・ウィーン劇場で初演されたがヨハンが出来の悪い脚本に素晴らし過ぎるメロディーを付けてしまった事が判った。即ちオペレッタとしては失敗作であった。でもヨハンは4日後に「レースのハンカチのポプリ(メドレー曲)」とレースのハンカチ中のトリュフ・クプレから作った「南国のバラ」を初演した。演奏は彼自身のヴァィオリンによる指揮で行われ万雷の拍手とブラボーに迎えられた。何度もアンコールに応じなければならなかったという。当日のことを書いた新聞には「それは感動的な夜で天井桟敷まで満員になった。芸術家にとっては「我々の」という称号は最上級を意味する。原級・シュトラウス氏、比較級・シュトラウス、最上級・我々のシュトラウス、今はこの「我々の」と云う言葉は使わなくなった。オペレッタでは失敗でもワルツでは大成功だった。この曲はイタリヤ王フンベルト陛下に献呈されて彼は勲章を貰った。

L春の声(1883.3)作品410

 1882年末ヨハンは当時の宮廷オペラ劇場の名歌手だったハイデルブルグ生まれのコロラトゥーラ歌手ビアンカ・ビエンキ(1855〜1947・本名ベルタ・シュヴァルツ)のための声楽曲の作曲依頼を受けた。作詞家リヒアルト・ジュノーも喜んで作詞に応じた。この冬、喜歌劇「愉快な戦争」上演のため三度目の妻になるアデーレ(1856〜1930)を同伴していた。そこでハンガリー作家ギュスターフ・タルモツィーの主宰する夜会でフランツ・リストと再会した。リストとは30年来の友人だった。ヨハンは即興的にワルツを演奏し、次にリストと何曲もピアノを連弾した。リストも散々弾いた。ビアンキが新しいワルツを歌った。ヨハンが数曲ワルツを弾いた後、ジプシーの演奏が朝の4時まで続いた。この新しいワルツは噂が噂を呼びヨハンは「春の声」として大公ウィルヘルム・フランツ・カールに捧げた。大公から返事が来た、それには「親愛なるシュトラウス君、昨夜は美しい旋律をいくら弾いても弾き足らなくて飽きませんでした。長年のファンの中に私の名も加えて下さい」とあった。
 3月1日のアン・デア・ウィーン劇場での「春の声」の初演は大成功で、翌日の新聞はこの曲を特集し「ヨハン自ら指揮を取り、ビアンキはすぐもう一度歌わなければ聴衆は納得しなかった。ビアンキの美声の妙技はコロラトゥーラ、スタッカート、トレモロの殆ど絶え間のないこの曲はワルツと言うよりコンサート曲である、さながら迦陵頻伽・カリョウビンガ(顔は人間の美女で素晴らしい声で囀る極楽に居ると言う鳥の名前)の様に歌って彼女の才能は余すとこなく披露された。世界中のソプラノ歌手はこの曲を自分のレパートリーに加えたいと思うであろう。この曲はワルツ王のお言葉の様な魅力的主題で始まり続くワルツもよく練られた主題が連続する名曲である」とべた褒めであった。
 3月18日には全く別のオーケストレーションがなされている「春の声」の初演が楽友協会黄金のホールで行われたシュトラウス演奏会でエドワルトが演奏したがこれも大成功だった。

M入り江のワルツ(1883.1)作品411

 ヨハンはオペレッタ「ヴェニスの一夜」が1883年10月3日にベルリンで初演されたが失敗だった。しかしそれは悪意ある邪魔が入ったからで決してこのオペレッタが駄作であったからではない。事実11月4日楽友協会黄金ホールでの慈善コンサートでエドワルトが指揮していたのに「入り江のワルツ」はヨハン自身が指揮をとって演奏し三度もアンコールのため演奏する羽目になった。

N皇帝円舞曲(1889.1)作品437

1889年10月19日ベルリンでは「王の建築」の名のもとに新らしいコンサートホールが開場した。有名な指揮者や作曲家が招待され、その中にヨハンも入っていた。ヨハンは何年も前から演奏活動から遠ざかっていた事から辞退しようとしたが、五夜にわたって100人のオーケストラを指揮する気前の良い条件が許可されたので、「騎士パスマン」
 の作曲を中断して10月10日にベルリンへと旅立った。新聞はヨハンが新しい「手に手を取って」というワルツを初演すると報じた。これはドナウ帝国とドイツ帝国との同盟を反映している。この同盟はフランツ・ヨーゼフ皇帝とヴィルヘルム皇帝との間で荘重に宣言された。この二人の皇帝を指す意味を込めて題名を「皇帝円舞曲」と出版社のフリッツ・ジムロックが名前を付けた。この「皇帝」は表紙にオーストリアの冠を載しているので誰を指すかは明白である。この曲は充分練習しないと演奏は無理であったので10月21日に演奏された。この曲が名作だと言う噂は数日の内に欧州全体に拡がり、当然ウィーンにも達した。当時ウィーンの第四連隊の楽長で、ドイツ騎士団の団長でもあったカール・ミヒャエル・ツィーラーは既に出版されていたピアノ譜を基に自分で勝手にオーケストレーションをして11月11日にローナッハーで行われたコンサートで聴衆に披露した。これを聞いたヨハンはひどく立腹して24日の慈善コンサートで自ら指揮をして発表した。樂友協会の黄金のホールでベートーベンの第9交響曲が祝賀演奏された後でヨハン自身の指揮でシュトラウス楽団により「皇帝円舞曲」は再び鳴り響いた。熱狂的な拍手喝采が沸き起こり、ヨハンは何度もアンコールしなければならなかった。当日のフレムデン・ブラット紙は「この曲はプロイセン的・戦闘的に始まり、昔のフリードリッヒU世の親衛隊の行進、その後でなじみ深いウィーン風の洒落た優雅な躍動に変って特記すべきはコーダで情緒豊に終わるのである」今日では「皇帝円舞曲」は世界のものになっている。

Oライトムントの調べ(1898.6)作品479

 この曲は作品番号479でヨハン・シュトラウスUが作曲した最後の曲で丁度一年後に死亡しました。この曲は作詞家フェルナンド・ライトムント記念碑の除幕式のために作曲したヨハン最後の曲です。序奏には師ドレヒスラーの「小さな弟よ、お元気で」「シュタイヤー舞曲」「御機嫌よう、静かな我が家」父ヨハンの「人生は踊り」ランナーの「美しい泉」父ヨハンの「歌詞のないドナウの唄」が上手く美しく繋ぎ合わさっている。「小さい弟よ」の中では「まだ太陽は美しく輝いているが、何時か必ず沈んでしまう」と歌われている、ヨハンは一年あまりで死ぬのを感じていたのだろう。ヨハンは死の床で熱にうなされながらこの「小さな弟よ」を口ずさんでいたそうである。

ヨハン・シュトラウスU世の葬儀は1899年6月6日に、市内のルター派プロテスタント教会で行われ多くの悲嘆するウィーン市民に見送られて中央特別墓地(Gruppe 32A Nr27)に溢れるばかりの花と共に埋葬された。3度目の妻アデーレも同じ墓に眠っている。ヨハン・シュトラウスUの記念碑はLPやCDのジャケットにもなっている、ドナウ川の妖精のモチーフに囲まれてヴァイオリンを弾く金色に輝く彼の姿はやっと1921年に市立公園に出来上がった。この庭園はイギリス風に作られていてヨハン以外にシューベルト、ブルックナーなど12人の記念碑が建っている。1921年6月26日の除幕式にはアルトゥール・ニキッシュがウィーン・フィルを指揮して「芸術家の生涯」「青く美しきドナウ」「酒、女、歌」を演奏した。1935年からナチスによって真っ黒に塗り替えられていたが、金色に輝く元の像に戻ったのは1991年になってからであった。作品番号のない曲がこれ以外に82曲あります。

Jシュトラウスのワルツ20曲にまだ足りません。手元にあるヨハンのピアノ譜の舞曲集で探すと上記がない曲もある反面「仲良しワルツ・(こうもり)からdu und du」「カリオストロ・ワルツ」「ドナウの乙女」「楽しめ人生を」「新しいウィーン」「キス・ワルツ」「ああ、美しき五月」などが入っています。ウィーン人と日本人の好みの差が出ていて面白いですね。ヨハンの作品の中で忘れてはならないのはポルカでは「狩人」「狩猟」「雷鳴と電光」「ピチカートポルカ」二曲、「のんき者」「シャンパン」「トリッチ・トラッチ」「ハンガリー万歳」「観光列車」「浮気心」「百発百中」「インドの舞姫」「山賊」「電光石火」「取り壊し」「クラプフェンの森で」などです。又、行進曲でメロディーが良いのは「フランツ・ヨーゼフ皇帝万歳」「ナポレオン行進曲」「ペルシャ行進曲」「エジプト行進曲」「オーストリア万歳」「スペイン行進曲」などです。また「カリオストロのチャルダッシュ」なども聞き逃せません。その外、「ギャロップ、カドリーユ、クオドリベット、ポルカマズルカ」など多数の曲があります。ヨハンの作品の中から魅力的なメロディーを継ぎ合わせて一曲にまとめたローゼンタール編曲の「卒業舞踏会」も忘れてはいけない作品です。この中には上の16曲以外の曲も含まれていて興味がつきません、例えばヨハンの「無窮動」がそれです。同じローゼンタールはオッフェンバックの諸作品の接続曲「パリの喜び」を書いています。この曲もオッフェンバックの集大成とも言えましょう。この曲はローゼンタール自身が指揮したCDがあり名演と言えます。
 

第5回 ヨハン・シュトラウス作品・続き 「こうもり」

 「蝙蝠」嫌な名前ですね。独語では「Die Fledermauss」英語で「The Bat」ハエの事を「Housefly」 トンボを「Dragonfly」蝶々を「Butterfly」ホタルを「Firefly」と言うから独語でも「・・・maus」は色々あるかと思って調べたがネズミと蝙蝠しかなかった。12月は「こうもり」と「第九」の季節ですね。Jシュトラウスの「こうもり」はウィーン国立歌劇場で公演される唯一のオペレッタです。それ以外のオペレッタはフォルクスオーパーでやるのです。「こうもり」は華やかで、面白く、心をうきうきさせてくれる、全ての悩みを忘れさせてくれる癒し系のオペラで年末には持って来いですね。

「こうもり」は1874年4月5日アン・デア・ウィーン劇場で初演され大人気を得て、1894年10月には作曲家兼指揮者ヨハンの50周年を祝う大々的行事の中で彼自身の指揮で例外的に宮廷歌劇場・今日のウィーン国立歌劇場でも上演された。

 登場人物はアイゼンシュタイン(Ten)、その妻ロザリンデ(Sop)、彼女の昔の恋人アルフレード(Ten)、ファルケ博士(Bar)、女中アデーレ(Sop,オルロフスキー公爵(M.Sop)弁護士ブリントなどです。

 話の筋は他愛ない無いもので、ある仮面舞踏会でファルケ博士が「こうもり」の仮装をして泥酔し、友人のアイゼンシュタインに駅前のロータリーの植え込みで寝かされ翌朝大勢の人々の前で不恰好なコウモリの姿をしたままの自分に気がついた。以後不名誉な「こうもり博士」の綽名をもらった。そして彼はアイゼンシュタインに「こうもりの復讐」をオルロフスキー公爵の舞踏会を使って実行する。アイゼンシュタインに大恥をかかせてそのお返しをするという話です。第一幕はアイゼンシュタインの自宅で彼が役人を蹴り飛ばしたため3日間投獄される筈がブリント弁護士の下手な弁護で8日間(8は数字のほかに「注意」の意味もあるのにご注目)に増えた事になって騒いでいる所にファルケが来て「入所する前にオルロフスキーの舞踏会で楽しくやろう」と燕尾服に着替えて監獄ならぬ舞踏会へいそいそ出かける。その後アルフレードが来てロザリンデといちゃついている所へ監獄長のフランクが来て彼をアイゼンシュタインと間違え逮捕して連れていく。第二幕ではロザリンデがハンガリーの公爵夫人として顔をマスクで隠して来ている。彼女の小間使いアデーレも女優の卵としてちゃっかり奥様のドレスを着用して来ている。監獄長のフランクもルナール伯爵と名を変えて来ている。舞踏会が始まり、余興・ガラ・パーフォマンスも始まる。アイゼンシュタインは自分の妻とは知らずに伯爵夫人に近づき口説き専用に作らせた豪華な懐中時計を出して夫人の胸に手を当てて胸の鼓動を数えだす。夫人は1,2,3、・・7,9と数える。彼は8が抜けましたよと始からやり直す。何度やっても8が抜ける、今度はあたしが数えるわと夫人に時計を取り上げられる。朝の六時になると時計が鳴って(序曲で6回鐘が鳴るのはこの為です)アルフレードとフランクは二人で帰る方向が同じだから一緒に監獄の方へ出て行く、一人は入所の為に、一人は勤務の為に。アルフレードは自分の身代わりが逮捕されているのを知ると、丁度そこにやってきたどもりの弁護士ブリントの「かつら、眼鏡とガウン」を奪って弁護士に化け、そこにやって来た妻のロザリンデとアルフレードから調書を取るといって昨夜の行動を詳細に白状させる。二人が熱い別れのキッスをしたと知ると、「よくも俺を裏切ったな、俺はアイゼンシュタインだ」と服装をかなぐり捨てて怒鳴りつける。二人は平謝りかと思えばそうでない、この時計で胸の鼓動を数えましょうかと例の時計を取り出す。この時やっと8が飛ばされた理由がわかる。8即ちAchatはドイツ語の「ご注意遊ばせ」で夫人が主人に忠告していたのに鼓動を数えるのに夢中で気付かなかったのだ。その上小間使いのアデーレ(実はJシュトラウスの3人目最後の夫人も同じ名前だったが)も現れる。女優じゃなくて女中だったのに手にキッスまでしたのか、と呟く彼に追い打ちをかけるように「その上、口にもね」と言われてしまう。彼は夫人の前に膝間づいて「許してくれ、全てはシャンパンのせいだ」と謝る。そして殺風景な牢獄はいつの間にか舞台転換されて明るく輝かしい舞踏会場になり、オルロフスキー公爵その他の人々も出てきて全員で有名な「シャンパンの歌」を歌って華麗に終わる。

 「こうもり」では言いたいことが5つあります。山ほどある「こうもり」のCDではカラヤンの二度目の録音とドミンゴ指揮のCDです。 岡田 正君・前大阪大学病院長とも話していたのだが、日本で公演する「こうもり」のガラ・パーフォマンスは手抜きお座なりで、「雷鳴と電光」や「狩」等の簡単なポルカか「酒・女・歌」位のワルツのダンスぐらいでお茶を濁してしまう。しかしカラヤンの二度目の今から40年余り前のLPから作ったCDは舞踏会の余興に招かれたといって登場する歌手たちの顔ぶれが素晴らしい、残念ながら殆どの人は死んでしまったが。レナータ・テバルディ、フェルナンド・コレナ、ビルギット・ニルソン、マリオ・デル・モナコ、テレサ・ベルガンサ、ジョーン・サザーランド、ユッシ・ビョルリンク、レオンタイン・プライス、ジュリエッタ・シミオナート(最近TVで見たのですが歌手の学校で未だに教えている様だった)エットーレ・バスティアニーニ(すごいバリトンだったが喉頭癌で夭折した、しかも楽譜は全然読めなかったという)リューバ・ウェリッチと当時の超有名オペラ歌手たちを出演させている、これはお聞き徳です。もう一つはドミンゴ指揮、しかもアルフレードをドミンゴが歌う、次から次へとアドリブでオペラのアリアの一節をその場面に合う言葉の出る箇所を選んで、リゴレット、トロバトーレなど色々歌うので楽しい。このCDでは余興にCD出演者本人が招かれた事になって登場する。しかも歌う歌がJシュトラウスの「ジプシー男爵」「ヴェニスの一夜」から取り上げられていて興味が尽きない。この内共通するのは何れもアルディーティ作曲のワルツ「口づけ」ソロ・ソプラノがオーケストラをバックに歌う曲でで本当に良く出来ている曲だと思う。LDでもカルロス・クライバー指揮よりドミンゴ指揮のLDの方がおもしろい。

 ファルケ博士の名前は実はファルケというのはドイツ語で鷹を意味するのです。オーストリアの国王の紋章は二頭の鷲だったからそれにひっかけファルケにした。そしてファルケに仕返しされるのがアイゼンシュタイン、アイゼンは鉄、シュタインは石、即ち鉄血宰相ビスマルクを比喩していて、戦争で負けた意趣返しをしているのです。なんでもない「こうもり」にもこのように国家の面子がかかっていたのです。ウィーンで人気を得て大当たりしたのも当然でオーストリア国民の愛国心・敵愾心に訴えたのです。

 仮面をつけたハンガリーの公爵夫人として舞踏会に来たロザリンデが歌う「チャルダッシュ」も非常に美しい曲でコンサートでは独立した曲として歌われる事が多いのですが、実はこれには声域の低いソプラノ用に作られた、あまり歌われる事が無い全然違うメロディーの「チャルダッシュ」があるのです。これはヨハンが当時の有名なソプラノ歌手のマリー・レナルトのために作曲したもので、これまた非常に美しい隠れた名曲です。

 もう一つはブリントという名前がドイツ語の「盲目」しかも弁護士なのにドモリときている。勿論歌手たちはドモリながら歌ってくれるので面白い歌の曲芸が聞けるのですが、日本では不適当な表現だと言われかねない。チャップリンも「独裁者」でヒットラーの事をヒンケル・びっこと呼びムッソリーニをナポローニ(ナポレオン以下の無能者)と呼ばせて当てこすっていたではありませんか。でも、このズボンは片チンバだとか椅子が片チンバで座りにくいとか、腸、管銃創、聾唖学校などは表現が不適当なのだろうか。例えば、私など人の言う事を簡単に盲信してしまい、教授や先輩には盲目的盲従し、私の言った事の盲点を突かれてギョッとなり思わずドモッテしまう。上司の命令には盲滅法盲信して「蛇に怖じず」で医療を実践してきたが、同僚や後輩からは「あいつは開いた口が塞がらない程で云う事が精神分裂気味で目開き盲大馬鹿野郎だ、唖然となってしまう」と評判らしい。その上厚生労働省からは4月直前まで聾桟敷に置かれてレセコン業者から4月からこの様に減点(減額)になりますと説明されるまで盲人同様一寸先は闇で解らない、盲導犬でも飼って導いてもらうかな。業者に先に教えると云う事は裏から何か利益を得ているとしか思えない、片手落ちだ。まあ我々と盲印(メクラバン)を圧すのが仕事の官僚とは「科学的で合理的な医療を全国民に普及推進する」との同じ目的を持ちながら我々から見たら不具戴天の敵に思えるのは散々騙された者の僻目だろうか。(不倶戴天はわざと間違えました)。この文章を誰からも不適切だと指摘されないように変更してみて下さい。どんな傾国傾城の美女や女優でも飯も食えば屁もひるし大便もする。日本語にも美醜の表現があっても許されるのではないでしょうか。でないと昔の文章が読めなくなるしそれこそ文化が失われてしまうと言うものだ。

 もう一つは「こうもり」にはグランド・オペラにした時にヨハンが苦心して作ったバレエ音楽があったのですが、素晴らしい曲なのに誰も聞いたことがないはずです。第二幕のフィナーレの前に踊られる曲で5部分に分れスペイン風、スコットランド風、ロシヤ風、ボヘミヤ風(合唱付き)、ハンガリー風といった性格の曲で構成された壮大なクライマックスのバレエを作る15分位の曲である。不思議な事に演奏される事は全くないと言う、惜しい事だ。

われわれは永遠に生きていけるように思っていますがそれは錯覚です、百歳まで生きたとしても36500日です。三万円等百円づつ使っても直ぐに無くなります。せいぜい生きている間は患者のために尽くし、時間が余れば「こうもり」でも見て楽しみましょう。ドミンゴ指揮のLDは楽しめますよ。

12月8日に岡田 正君と夕食を共にした後の会話の中で「こうもり」のシャンパンの歌では乾杯をAnstossennと何回も言うものだから、岡田君がドイツ人の教授の前でAnstossennと云ったら、その教授から、お前は「こうもり」の見過ぎだドイツでは乾杯をProsit又はTrinnken furを使う、またAnstossenはグラスをカチンと突き合わせて飲む時だと教えられたらしい。韓国、中国では干杯と言うらしい、これでは注がれたお酒を全部飲み干さないといけませんね。では来年は少しは良い年になることを願って乾杯しましょう。良いお年をお迎え下さい。来年もよろしくお願いします。

第6回 ヨハン・シュトラウス作品・続き 「美しき青きドナウ」

JシュトラウスUに1865年7月初旬名高いウィーン男声合唱団から夏の合唱祭のための新しいワルツ作曲依頼と招待状が送られてきた。しかし種々の悪条件が重なってその実行が不能になった.1866年にはサドヴァの戦でハプスブルグ王国はプロシャに敗北し、今日の日本の如くバブル崩壊、インフレ、政治の腐敗・汚職の横行マリー・テレジヤが定めた風紀紊乱予防法により風紀委員会なる秘密警察が乱れた風紀を糺す目的で、不審尋問、不当逮捕、拷問に近い尋問、厳しい罰則、私信の検閲、果ては個人の寝室にまで土足で侵入、と云う正常でない状況だった。今日の日本には必要かもしれませんね。少し予定より遅れたが彼は4曲のワルツにピアノ伴奏をつけて合唱曲を作った。作詞は曲に合わせて、詩人で警察官のヨーゼフ・ヴァイルが創った。曲は1876年2月15日130人のウィーン男声合唱団とハノーヴァー公ゲオルグ五世第42連隊楽団のオーケストラでこの「美しき青きドナウ」は初演された。諧謔的な歌詞が皮肉な事に今の日本の状況を良く現わしているように思える。
「ウィーン人よ、喜べ、ほー、ほー、見回してご覧、かすかな光がある、でも我々庶民には見えない、でもお祭り騒ぎで、重く陰鬱な時代、気にするな、後悔しても嘆いても仕方ない、だから楽しみ喜んで踊るのだ、財政的に不運な時も、汗をかいて踊れば忘れてしまう、ある太った家主が、6部屋も空いちゃって、入ってくるのは無一文の芸術家、そこで怒って踊りまくる、政治家、官僚、評論家、思慮分別ぶって、裏で金儲け、美しき青きドナウを眺望する家に住んで、ワルツを踊って搾取する、こんな良い時は二度とやってこない、時ははかなく過ぎ去り、一瞬にして過ぎ去ってしまう、踊れ、踊れ」一部略
 この諧謔的な歌詞は褒められなかったが、メロディーが良かったから熱狂的な喝采を受け、すぐにアンコールさせられた。当時のこの国は戦争に負け続けで、1848年にラデッキー将軍がイタリヤで勝って以来凱旋行進曲は聞かれた事はなかった。その時父Jシュトラウスが作ったのが今も有名なラデッキー行進曲である事は云うまでもない。そして息子のJシュトラウスが死んで20年後にこの王国が滅びるまでの間に一曲だけウィーン市民を熱狂の坩堝に放り込んだ凱旋行進曲が演奏された。それは1885年10月24日アン・デア・ウィーン劇場でJシュトラウス自身の指揮での喜歌劇「ジプシー男爵」の第三幕で実際は負け続けのオーストリア・ハンガリー帝国軍がスペイン軍を破って凱旋してくる場面で演奏されたのだ。たとえ歌劇の中だとは云え戦争に勝ってきて凱旋行進曲と勝利の合唱を高らかに演奏しているのだ。ウィーンの市民は涙を流して喜んだという。だから毎年のジルベスター・コンサートや新年コンサーとでは一番最後にラデッキー行進曲を演奏し観客全員が手拍子を打ってお祝いするのはウィーン人にとっては意味があるのだ。
 でも現実は違った。話をこの曲に戻すとメッテルニッヒにとっては100人以上もの男性がたとえ合唱団とはいえ国家反逆の陰謀を企てるのではないかと疑い厳しく監視し行動を妨げた。余り歌詞が適切ではなく愚劣だと考えていたJシュトラウスはフランツ・フォン・ゲルネルトに作詞を依頼し、静かな一度聞けば忘れられない序奏と後奏を持った今の形のこの曲の作曲に取り掛かる。この作業は現在Jシュトラウス博物館のある狩猟地域の家で完成した。そしてともすれば分裂しそうなドナウ河畔のオーストリア・ハンガリー帝国に献呈された。「美しき青きドナウ」は1890年7月2日シェーンブルン近くのドレーアー公園で行われたコンサートで初演された。そしてこの曲はウィーンの賛美歌・第二の国歌にまで昇格され、世界中の人々から愛される事になる。一昨年大阪(大学)男声合唱団で歌ったゲルネルト作詞の和訳をCDや昔のレコード等で団員達で手分けして探したが、どこにも訳が無かったので指揮者の青山令道(元・京セラ専務・欧州社長)氏がドイツ滞在中に知り合った詩人岡野喜美代氏にお願いして和訳していただいた。
 「こんなにも美しき青きドナウよ、谷や草原を抜けて、どこまでも緩やかにたゆってゆく、ウィーン人は君に挨拶を送る、銀色のリボンは、国と国を結び付け、美しい川岸で、我々の心は朗らかに鼓動する、遠い黒い森の中から、美しい川岸を経て海へと急ぐ、至る所で恵みを施し、東へと歩み続ける、そして多くの支流を受け入れる、君は高らかに幸せの歌をうたい、我々の中に強い絆を張り巡らす、自由と忠節が歌われ行動に示される、如何なる時も忠誠と団結が我々を守るのだ」一部略
 この様なドナウ賛美の歌が続く、自由、忠誠と団結を歌い上げないといけないのは、この王国が分裂しそうな予感があった(実際に第一次世界大戦後に分裂してしまう)からなのです。オーケストラ版のこの曲は人々にこよなく愛されこの国にとっては無くてはならないものになっていった。
 
 彼が1899年5月22日から肺炎で臥せっているのをウィーン市民は痛いほど知っていた。6月3日に何時もの様にゾフィエンザールで開かれていた演奏会の演奏途中で、劇場支配人がつかつかと指揮者に歩み寄った。演奏は中断され何事か囁くと再び指揮棒を握り直した指揮者が演奏を始めた。曲は「美しき青きドナウ」に変っていた。そして静かな序奏が終わり皆の一番良く知っていて有名な第一番目のワルツが始まる直前の、第44小節目のソ・ファ・レ・で静かに指揮棒を置くと演奏を止めて、全員が立ち上がって悲しそうに黙祷を捧げた。(楽譜参照)。観客は何が起こったかを敏感に察知して静かに黙々と家路に就いた。彼の死に顔はつい半月前まで毎夜の如くヴァイオリンと弓を振りかざしてワルツを若々しくひときわ大きく美しい音色で演奏しながら指揮していた彼の顔ではなく年相応の醜い老人のそれだった。葬儀はウィーン市民総出で盛大に行われた。
 兄ヨハンが死ぬと、弟エドワルトは遺言通り(本当かどうかは怪しいと言うが)Jシュトラウス楽団所持の全ての楽譜を自宅の庭で3日がかりですっかり焼いてしまった。ヨハンが弟二人をこき使って儲けていたと信じきっていたのだ。自筆の楽譜はすっかりなくなったがヨハンはオーケストラ譜、ピアノ譜など全ての作品を楽譜屋から出版させて儲けていたのでエドワルトの鬱憤晴らしは成功しなかった。当時は著作権と言う概念がなく作品は出版した作者にお金が入ったのだった。だからヨハンも「仮面舞踏会」カドリーユ・ヴェルディ、「幸福の第一日」カドリーユ・オベールなど他人の作品のメロディーを拝借してもお咎めは無かったのです。そのお陰で今もヨハン、ヨーゼフ、エドワルトの全ての作品を聞けるのです。そして二人の兄ヨハン、ヨーゼフ共に子供がいなかったから、皮肉な事にエドワルトの子孫が今Jシュトラウス楽団を組織して演奏活動をしているが評価はそんなに高くない。
 ヨハンの死後も残された賢妻アデーレは引出しからヨハンの書き残しの楽譜原稿から次々と新作を発表した。「ワルツ王の思い出」「シュトラウスの家」「夢の形(当時フロイトの夢判断に関する研究がもてはやされていた)」等だが、当時は絶賛されたが今は演奏される事はない。未完のバレエ「シンデレラ」とヨハンの許可を得て作られかけていたヨハンの作品の良いとこ取りの喜歌劇「ウィーン気質」は今でも上演されている。

   第7回 花の都パリをわかせた男・オッフェンバック

 ユダヤ人ヤーコブ・オッフェンバッハはケルンで生まれたドイツ人であった。パリへ父親に連れて行かれて、数年前は天才ピアニスト・リストの音楽院コンセルヴァトワール入学を拒否したケルビーニは今度もまた天才作曲家の入学を拒否しようとするが父親の巧みな話術で入学を許可する。しかし今度は生徒の方から退屈な授業に愛想をつかして逃げ出してしまった。フランス風にジャック・オッフェンバックと名を変えた彼はそれでもドイツなまりが消えずに苦労した。彼は小さいオペラ座でチェロを弾いていたが、満足できず自前の劇場でオペレッタを上演したいと苦労する。万国博の時にブッフ・パリジャン座を得て「二人の盲人」を上演する。たった一幕で登場人物三人だけの許可であったが、曲の斬新な魅力と意外性、実在の人物を風刺したと明らかに判る劇の筋書き、マイヤーベーヤーの曲を風刺しているとわかるメロディー、この演目は評判は評判を呼び、ついに一年間もロングランを続ける。以後時流に合わせた皮肉と、風刺と、冷笑を織り交ぜた彼のオペレッタは人々の興味と、称賛と大喝采を浴びる曲を作り続け、最後のホフマン物語までになんと101曲ものオペレッタを書き上げて成功させるのである。
 フランスでは2幕以上は許可されない状態が長く続き、始めの27曲は1幕3人に限られていた。曲が短いから今の場末の映画館みたいに3本立ての上演だった。段々と出演者の増加を許可され、2幕以上になったのは後半の38曲だけであった。
 オッフェンバックと言えば小学生でも知っている天国と地獄のカンカンが有名ですが、CDになって手に入るのは「地獄のオルフェ・日本では天国と地獄」「美しきエレーヌ」「パリの生活」「ペリコール」「ジェロルスタン大后妃・日本名ブン大将」「ホフマン物語」だけですが、いずれも魅力溢れるオペレッタです。彼の曲の陽気さの秘密は速さの中に隠されている。リズム、テンポ、アクセント、短いクレッシェンド、スタッカット、輝き燃え上がるアルペッジオ、巧みな変調、思いもかけぬ所に入る打楽器を含む強打音、それに歌詞の中にも笑い声や咳その他雑音まで音楽にしてしまう、その上話の筋書きに当時の政治家や有名人を揶揄した風刺まで取り込んで当時としてはロングランを出し続けた。彼は時代を楽しませる道を選んだ。時代を茶化す一歩手前で、その軽薄さにぴったりと歩調を合わせた。今はそれがあだになって現代に通じるギャグがなく90曲近いオペレッタは死蔵されてしまっている。まあこれらのオペレッタを聞いてみて下さい。19世紀の頽廃した文化に触れて感激する事請け合いです。時間がないと言う先生にはオッフェンバックの石焼きビビンパ(私の大好物ですが)・彼のメロディーの寄せ集めでローゼンタール編曲の「パリの喜び」がお薦めです。
 オッフェンバックが言った、「ベートーベンは最高・No.1です、モーツアルトは唯一無二です」。そしてある時彼がロッシーニを訪れると、難しい顔をしてピアノを弾いている「ロッシーニさん、楽譜が上下逆じゃないですか」「いやー、一向に良いメロディーが出てこないから、逆にしたら美しいメロディーが出るかと思って研究していたのだ」なんとそこに乗っていたのはワーグナーの楽譜だった。確かモーツアルトのピアノ曲には4小節位が線対称になったのがあると岡田 正君に楽譜を見せてもらった事が学生時代にあった。今度会ったらケッヘル何番か聞いて置きます。
 皆様方は地獄に行きかけたことはおありでしょうか?私は何度も地獄の苦しみを味わって自殺を考えた事があります。その度に家内の助けと、自分の意志力と偶然とで乗り越えて来ました。地獄の苦しみを味わっていない先生は幸福な生涯で良かったですね。
 日本の古事記にイザナギの命、イザナミの命が我が島々の国を作り、35人の子供を産んだが最後のトヨウケビメノ神(火の神)を生んだので大事なところを焼かれて死んでしまった。イザナギの命は大変嘆かれて妻に会いたいと黄泉の国まで出かけた。すると彼女は神々と相談するのでその間待っていて欲しい。決して私を見ないように、と言い残して別室に入った。彼は待ちくたびれて覗いたところ、蛆虫のわいた彼女の体に八人の怖ろしい形相の雷神が取り付いて彼女の身体をしゃぶっていた。彼は驚いてほうほうの態でこの世に逃げ帰った。(これは要約です)
 驚いた事にこれと全くよく似た話がギリシャ神話・ローマ神話にあるのです。ヴァイオリンを持って歌うと周りの人々を魅了してしまう才能に恵まれた音楽神オルフェは相思相愛の新妻ユリディス(水の精ニンフ)との幸せな生活を送っていた。これに横恋慕した牧人のアリステ(実は冥界の王プルートの化けた姿)が彼女を我が物にするため水蛇に足をかませて殺して地獄へ連れて行った。地獄まで妻を取り返しに行った彼の音楽の力と夫婦の強い絆に感動したプルートは彼の望みを聞き入れ彼女を連れ帰るのを許した。但し地上に着くまで彼女の方を絶対に振り返らないという条件をつけた。もう少しで地上に到着という時、冥界で三度雷鳴が轟いたので心配した彼は禁を破って彼女を見てしまった。彼女は地獄に滑り落ちて永久にプルートのものになった。彼は他の女に興味を示さなかったので、バッカスと巫女達は侮辱されたと思い彼を八裂きにして、荒野に撒き散らした。しかし彼のヴァイオリンと首はレスボス島に流れ着きヴァイオリンを奏でながら彼の妻の名前を歌い続けたという。
 2月7日の土曜日にアルカイックホールで行われたニュー・オペラシアター主催のオッフェンバック「天国と地獄」オペレッタ公演に家内と行ってきました。出演した歌手たちの声も良く、当然ですが立派な方々でした。この曲は学校の運動会で必ずBGMに使われる有名なメロディーが含まれていますので,何を今さらと思われる先生も多いかと存じますが、聴くと見るでは大違い、こんなオペラは初めてでした。
 物語はオルフェの話の荒唐無稽で完全なパロディー・悪ふざけで、彼は弟子の女の子に熱を上げ、妻はアリステと良い仲になって浮気をしている。それに気付いた彼はアリステを殺そうと毒蛇を放つ。しかしアリステもこれを察して彼女を毒蛇のいる草むらに向かわせて足を咬ませて殺し、地獄へと連れて行った。彼女はアリステのものになって喜び、彼も弟子と大っぴらに浮気できるので大喜び。しかし世論・世間てい(という役の俳優が出る)が許さないので彼は天国に昇って大王ジュピターに懇願して妻をプルートから取り戻して欲しいと願う。天国の退屈な生活で反乱を起こしそうだった神々も彼について地獄まで楽しい観光旅行としゃれ込みユリディスを取り戻しに行く事にする。
 地獄に着くとジュピターは美しいユリディスを見て一度にほれ込み二人は意気投合して天国に二人で逃避行する約束をするが、ジュピターの嫉妬深い妻ジュノーや世論に気付かれて、仕方なく二人を地上に帰る事を許可する。但し神話と同じように地上に帰るまでは絶対に彼女を見てはいけない、という条件をつけた。二人は険しい崖を登ってもう少しで地上に出そうになったので、ジュピターは雷鳴を三度轟かせた。びっくりした彼は妻をかえりみたので妻は再びジュピターのいる地獄に転落した。結局彼女はバッカスや神々の巫女になって地獄で幸せに暮らした。
 天国のオリンポス山で暮らす出演者の神々はこのオペレッタに沢山登場します。眠りの神モルフェウスはケシの花びらで神々を眠らせる(モルフィネの名前の由来)。愛の神ヴィーナス、恋の神キューピット、戦いの神マルスはオペレッタではヤンチャな・エッチな行動をする。狩の女神ダイアナは泉で水浴中に通りかかった若者・アクテオンを彼がダイアナの裸体を見たと言いがかりをつけて鹿にしてしまう、オペレッタではアクテオンを誘惑して肉体関係を結んだのがジュピターにばれて彼が鹿にされる事になる。
 ジュピターの御乱行。嫉妬深い妻のジュノーは昔、傷ついて倒れて寒さに凍えているカッコーを拾い上げ抱きしめていると実はそれはジュピターであっという間に目的を遂げられた経験がある。アルクメネの場合は夫に変身して彼女に近づくが太陽神ヘリオスに3日間は地上を照らさないように命令して目的を遂げる、生まれるのが怪力のヘラクレスである。又、水浴している美しい人妻レダには白鳥に変身して近づき目的を遂げる。生まれた子供は双子で勇敢で大活躍して最後は天に昇ってふたご座になる。このモチーフを使った裸女と白鳥の有名な名画がありましたね。ダナエの場合。ダナエの父アルゴス王アクリシアスは娘ダナエの生む子に殺されるというお告げを聴き、ダナエを城の地下室に青銅で覆って幽閉する。美しい乙女ダナエをものにしようとジュピターは黄金の雨となって僅かな隙間から忍び込み,ぐっすりと眠る彼女の膝に降り注ぎ思いを遂げた。生まれた子供はペルセウスだった。ある日の競技会でペルセウスの投げた円盤が観客席にいたアクリシアスを直撃して、不幸にもお告げは的中した。チュロス王女エウロペの場合。ジュピターは上品でおとなしそうな牡牛に変身して近づく、エウロペは美しい姿に魅かれて牛の背に跨ってしまう。彼はそのままクレタ島に泳ぎ着き簡単に跨っているエウロペをものにする。彼女はクレタ島の女王になったがエウロペの名前はヨーロッパの語源として永久に名を残した。旅行の神、早耳早足の神ヘルメスまたはマーキュリーは天国地上地獄を往復してジュピターに起こっている事件を報告する仕事をしていたが、今はフランスでブランドの鞄屋の名エルメスになっている。出演する神々は下着丸見えの薄手のローブを纏っている。
 退屈な天国では神々がジュピターに反乱を起こしてラ・マルセーユーズも聞こえる(当然ですが帝政時代この曲は禁止でした、勿論ギロチンは覚悟の上で)。ハエの二重唱が破天荒に傑作だ。今までオペラ、いや舞台でこんなの見た事も聴いた事もない。ハエになったジュピターがユリディスを誘惑する二重唱はジュピターが大股を拡げた彼女の前開きのスカートの間に観客に背を向けてしゃがみ込んで股の間に顔を寄せて二重唱を歌う、彼女の歓喜するような歌声は卑猥にさえも思える。これでは完全にセクハラだが、舞台の上では昔からそう云う演出だから仕方ない。それで二人は逃避行を決心する。
 プルート主催のジュピターを始とする神々様御一行歓迎大宴会「バッカスの祭り」・主題歌は余りにも有名になったカンカン、に彼女はバッカスの巫女として参加しているが逃避行直前に露見、一同地獄に留まって楽しく毎日をバッカスの宴会、乱痴気騒ぎとオージーとカンカンの大合唱で幸福に過ごしたとさ。オッフェンバックの時代はうっかりするとギロチンの犠牲者になりかねない物騒な時代だったからエッチなオペレッタが無難だったのでしょう。
 ここで天に昇って星になった神々の日本名を書きますと、イタリックはギリシャ名

 太陽・・・Helios= 太陽神(Heヘリウムもこれから命名)------Apollo
 水星・・・Mercury= 太陽の使者(水銀)------------------Herumes
 金星・・・Venus= 美と愛の女神-----------------------Aphrodite
 地球・・・The Earth
 火星・・・Mars= 軍神-------------------------------Ares
 木星・・・Jupiter= 神々の大王で天の支配者-------------Zeus
 土星・・・Saturn= 農耕の神(Jupiter以前の天の支配者)
天王星・・・Uranus= 人間界を支配する神 
海王星・・・Neptune= 海神---------------------------Poseidon
冥王星・・・Pluto= 冥界の王(ディズニーのマンガの犬)-----Hades

それ以外の出演する神

Minerva= 知恵と技芸の神---------------------------Athena
                                (大阪大学医学部同窓・銀杏会館リーガ・ロイヤル直営レストランの名前)
Diana= 月の女神で処女性と狩猟の守護神----------------Artemis
                               (それを自分でも男の狩猟をやって失敗してパリで自動車事故で死んだ王妃あり)
Bucchus= 酒と酒宴の王----------------------------Dionisos

 Orpheus= オペレッタの主演者?全ての人に感動を与えるヴァィオリンの名手。
1860年4月27日イタリアン劇場では近衛兵が護衛する中,仏国の全貴族がこの「天国と地獄」を鑑賞しにやって来た。このオペレッタを見た事がない最後のフランス人になりたくなかったナポレオン三世が先頭に立って。当時の記録では「この狂ったオーケストラが音を出し始めると、社会全体が踊りになだれ込んだ。死人も跳ね起きそうだった。この音楽が始まると政府、制度、風俗、法律までがサラバンドに乗って踊りだしそうだった」と書かれている。この日の売り上げはプレミアが付いたので2万2千フランにもなった。その上数日後にオッフェンバックは皇帝からブロンズ像が贈られた。付いていた手紙には「地獄のオルフェが余に味わわせてくれた絢爛たる舞台の宵の事は、一生忘れぬであろう」とあった。
 オペレッタが終わってから指揮者の中村 健先生(現在・神戸女学院教授・音楽部学部長)と食事を共にする機会を持てた。明日のマチネー(午後の公演)をされるのに12時前まで付き合って下さり色々話が聞けた。欧州ではオペラよりオペレッタの指揮の方が困難な事。どうしてかと言えばオペレッタでは歌手が勝手なアドリブを云って観客を笑わせるがその意味が解りづらく、次の音楽のタクトを振り始めるタイミングが取りにくいから、オペラの方が日本人指揮者には指揮しやすい。今夜の演出は外人がやったので少々えげつないがフランスでの伝統的な普通の演出で(そう云えばエッチな行為があちこちあった)明日のマチネーの出演者はさらりとやってくれるだろう。最後に食卓のコースターの裏にさらさらと下に付けた楽譜を書いて下さった。
 左の楽譜はオッフェンバックが非常によく使うメロディーであちこちに隠れているのだが、下の行の様に順番を変えるとB,A,Cis、Hとなる。バックが半音開いている(嬰ハ音で半音高くてラとの間が開いている)、ドイツ語で開くはオッフェン、だから音楽に自分の名前を書き入れたのだと言われた、実は誰も信じてはくれないが私が見つけたとも云われた。欧米の有名な画家が自分の作品に自分の似顔絵を判らない様にさりげなく書き込んで作品を作り上げる手法ですね。面白い説なのでコースターの裏の落書きと共にご紹介します。

ついでにウィーンのオペレッタの元祖ズッペについても書いておきましょう。
  フランツ・ズッペ(1819〜95)はユーゴスラヴィアの片田舎スプリトから一旗上げるためにウィーンへ出て来た。始めはチェロ、ヴァイオリン、ピアノ何でも弾けたので歌劇場で楽員として弾いていたが、めきめきと頭角をあらわして47歳の時から16年間はカルル歌劇場の指揮者をしていた。1858年オペラ・ブッファで巨万の富を築いたオッフェンバックに刺激されてウィーン・オペレッタという新しいジャンルを創出した。彼の作る曲はメロディーが豊富でそのくせ楽器の独奏部を巧みに歌わせ全奏で一気呵成に観客を興奮の坩堝に放り込む、作曲の魔術師だった。彼もミューズの神に選ばれた一人の天才だった。死ぬまでに47曲もの舞台音楽の序曲を作った(ナクソスのCD五枚に全部入っています)。その内オペレッタは31曲で「詩人と農夫」「美しいガラテア」「軽騎兵」「ボッカチオ」などは有名ですが日本ではハイライト版しか聞けませんが、ドイツ語圏では他の曲も良く上演されるようです。明治時代の浅草オペラでボッカチオの「恋は優し、野辺の花よ」と歌われて日本中に流行ったメロディーで有名です。浅草オペラではフロトーのマルタの結婚式の合唱を「おっさん酒飲んで、酔っ払って死んじゃった・・・・」とソロに変えて歌われていたようでこれも日本中を湧かせた有名なメロディーでありました。
 憂さを忘れるためにズッペを5枚聞いて見ましょう。良い夢が見られますよ、でも覚めると厳しい現実が立ちはだかってますなぁ。
 

第8回 シュトラウスの時代のウィーン

ワルツはオーストリア帝国の様々な民族特有の踊り、例えばチロルのレントラー、ハンガリーのチャルダッシュ、ポーランドのマズルカとポルカ、更にバルカン高地のコロといった踊りの中で育っていった。それまで踊られていたガヴォット、メヌエットはワルツの出現と同時に姿を消してしまった。ウィーン会議の時にメヌエットを知っていたのはシャンポーナ伯爵ただ一人だったと言う事です。始めは踊るためのワルツも一世紀も経つと聴くための音楽へと変わってしまった。ウィンナ・ワルツは第一次世界大戦まで圧倒的に流行していたウィーン・オペレッタの中心の音楽になっていた。今ここで論ずるのは踊るためのワルツについてです。
 父シュトラウスは5歳の時、安物のヴァイオリンを与えられて、絶えずそれを弾くようになった。その音は陰気で「かさかさ」していて、薄っぺらだった。彼は気まぐれに、そのヴァイオリンの中にビールを流し込んだ。ビールを飲むとヴァイオリンは大変よく鳴るようになったそうだ。となると僕のギターやヴァイオリンも上等のコニャックを流し込むとどういう素晴らしい音が出るか、と考えてうれしくなる。少なくとも鋸の目立ては避けられるかも知れん。
 この楽器で彼は聞き覚えの曲を繰り返して練習し、絶えず即興で弾いていた。そんな時、彼の家族の友人のヴァイオリニストが、少年シュトラウスの才能を認めて彼に稽古を付け出した。これが父シュトラウスの音楽家へと進むきっかけとなった。彼はパーマーと言う指揮者の下で居酒屋で演奏し始めた。15歳の時に同じような3人の青年が加わった。ドラーネッタ兄弟とヨーゼフ・ランナーである。そして彼らは成功の階段を登り始める。ランナーはウィーン人の陽気さ、須加の間の憂鬱など、ウィーンの人々の気質を心得て心を掴んだ。それに反してシュトラウスはいささかジプシー的なものも持っていたと云うよりジプシー其の物の血を引いていたと言うべきであろう。
 グスタフ・モローによれば「シュトラウスと違ってランナーは終生、場末にとどまっていた。だからランナーの曲は民謡に通じるものがあった。ヴァイオリニストとしての彼は、官能的でなく感傷的だった。これがウィー市民の崇拝をかち得た原因だった。ノルウェーの大ヴァイオリニストのオール・ブルがウィーンに来た時、彼の弓使いがランナーそっくりなのに驚いた。楽器のコマを低くして、重音の演奏をやり易くしていたのだ。そうすると楽器は音量と力強さを失う事になる。ランナーの音楽の魅力は柔らかい重音にあったのだ。彼の音楽には「すすり泣く三度」と言う巧みな重音の扱いだった。一方シュトラウスは彼が突如として魅力的にテンポを変える事、それと官能的な弓使いにあった。ランナーは聴衆に媚を売ったが、シュトラウスは官能性で聴衆の感情を思うがままに支配したのだ。
性格もランナーは感情がこもった優しい穏やかな人柄だったが、父シュトラウスは激しやすい人だった」と書き残している。
 彼らはウィーンにおけるワルツ演奏の王様として君臨する事になる、不幸にもウィーンには二人の王様を入れる余地がなかったので、あの有名な「ワルツ合戦」が始まったのである。これはネストロイがライトムント(二人とも当時の有名な劇作家で俳優であった)に勝ったのと同じで、シュトラウスが圧倒的な勝利を手にすることになった。優しいランナーは「別れ」と言うワルツを作って彼との別れを悲しんだ。
 父ヨハン・シュトラウスはウィーンの楽しみに、新しい要素を加えた。それは放逸なバッカス的な狂騒と情緒への自己陶酔である。シュトラウスが踊り手を狂ったように旋回させる有様を見たある新聞記者は「これは北米のインディアンの祭りだ」と記事にした。
1832年にウィーンを訪れたワーグナーは父シュトラウスの個性が聴衆に与える陶酔感、及びシュトラウス自身の魔術師的な陶酔感にことのほか驚いた。「このウィーンの大衆音楽の魔術師は、ワルツの演奏の序奏で、恍惚境に入ろうとするかのように、身を震わせる。音楽に酔いしれた踊り手でもある聴衆の発する喜びの声がシュトラウスの情熱を苦悩に近い所にまで高めるのだ。それを一気に開放し始めると全員が狂気の中の渦に放り込まれるのだ」と書き残した。北米インディアンの祭り、バッカスの饗宴、魔法使いの酒宴、それら全ては、レオポルドシュタットでの居酒屋の亭主の息子が弾く魔法のヴァイオリンがなせるわざなのであった。
 父Jシュトラウスについて幻想交響曲を書いたエクトール・ベルリオーズが書いた論文の中に読み取れる。「パリの様にオーケストラが世界から集まってくる所に唯ワルツだけを演奏しに来た・・・。この楽団による演奏が何故あれ程の興奮を巻き起こしたのだろうか?
楽団の腕は確かに水準以上だがそれだけでこの成功は説明できない。音楽には最も重要でありながら演奏かも、作曲家も疎かにしている領域がある。それはリズムだ!シュトラウスの楽員達は、至難なリズムの変化を克服する事にかけては、世界のどの音楽家よりも遥かに熟練している。彼らが演奏するワルツは拍子がそれ自身の刺激によって、猛然と狂気のように変幻自在に疾駆する。こうしたワルツは仏国のオーケストラには演奏が困難である。ウィーンの音楽家は、それをやすやすと演奏するのである。彼らのリズムの自由な変化から生じるその魅力は、彼らの体内から自然に湧きあがるものであり又それに熟練している。このシュトラウスの成功した理由こそが、パリの音楽の発展を予言するものだ。その優美なメロディーや華麗なオーケストレーションよりも、そのリズムとアクセントに在ると信じている。シュトラウスはハイドン、モーツアルト、ウェーバー、ベートーベンが切り開いた国を自由に歩き回っているのだ。あの素晴らしいリズムの国を!この国の肥沃な土地はそれを耕すものに限りない実りをもたらしているのだ」
 アイルランド人のオペラ歌手オ・ケリーが書き残したウィーンのダンス場の様子には驚かざるを得ない。「カーニバルの季節が近づくと、陽気な騒ぎが至る所で始まる。そして祭りの日にはこの騒ぎは極限に達し、仮面舞踏会の催されるレドゥテンザールは王宮の中にあって、大変広いのだがそこは4千人の人で身動きも出来ないほどに埋め尽くされる。ウィーンの夫人達のダンス熱は物凄く、夜の10時から朝の7時までワルツを踊るのは一種の狂乱状態の連続である。とてつも長くて広い部屋で抱き合った二人が物凄いスピードで回転する時の危険は計り知れないものだ。二人は一曲でそうした長い部屋を、全速力で7回から8回もくるくる踊り回るのである。しかもその間に夫々のペアが他のペアを追い抜こうとするのである。従って不意に二組のペアが接触するような事があれば致命的な事件も起こりかねない。それに9ヶ月の妊婦も平気で踊りに来ていたから分娩室まで準備してあったのだ」H.E.ヤーコブが記録しているが「父ヨハン・シュトラウスの演奏を伴奏に踊るのは、麻薬なのだろうか、それとも何か興奮剤の様なものだったのだろうか?それは判らない。が、甘さのある激しさ、狂気と愚劣さ、しかもそこに一種の上品さのしみこんだ奇妙な混合物である事は確かだ」と書き残している。
 一夜にウィーンの4万人の人々、しかも貴族から中流階級の人々を、中にはいかがわしい夜の女も混じってはいたが、踊らせるために作られた貴族趣味豊かで絢爛豪華な多くのダンス場には冬でさえ色々の花が咲き乱れ、滝が水しぶきを上げてそれが小川になって流れて魚が泳いでいた。けばけばしいトルコ風あずまや、ラップランド人の小屋風の部屋まであった。天井が開くとバラの花びらを踊る人々に降りかける装置まであった。そこにはあらゆる建築様式がこれらの広間に豪華な装飾をされていたのだ。空想的なムーア様式、純ギリシャ式、豊かな彫刻で飾られたゴシック様式、それらが互いに研を競い合っていた。調度品はリッペンザーレと呼ばれる様式の彫刻や上品に刻み込まれたネコ脚の机や椅子が置いてあり、ブロンズや金や銀の彫刻が飾られ、壁を飾るゴブラン織や絵画、天井からは豪華なシャンデリヤがいくつも輝き、まるでこの世の天国であった。
 これらのダンスホールは、モントシャイン、チボリ、オデオン、ドンマイヤー、ソフィアザール、アポロザール、シュヴェンダー、シュペルル等であった。ここに通っていたハインリッヒ・ラウベは「お客は種々雑多だが、軽蔑すべき様な人はいない。人々は無数のテーブルについて、飲み、食い、喋り、笑い、且つ音楽を聞いている。その真ん中にオーケストラが位置して、新作のワルツを演奏している。このワルツはまるで毒蜘蛛のタランチュラに噛まれた様に人々の血をたぎらせ、踊り狂わせるのである。中央のオーケストラの指揮台には現代オーストリアの英雄“オーストリアのナポレオン”である父又は息子のヨハン・シュトラウスが立っている。雑多な群集が互いに押し合い、娘達は興奮し、笑いながら威勢のいい青年達の間をすり抜けてゆく。その娘達の熱い息が、熱帯の花の香りの様に私の鼻をくすぐる。そして娘達の腕が私を踊りの真ん中に引っ張って行った。ここではだれ一人謝るものはなく、“失礼”と云う言葉を発する者も、受ける者もいないのである。ワルツの始まりは独特の特色を持っている。シュトラウスは、震える様な前奏で演奏を始める。表情豊かなその喘ぎは悲劇的にさえ聞こえる。それはあたかも出産の喜びを感じながらも、まだ産みの苦しみが残っているかの様だ。男性は相手の女性を深くその腕に抱きかかえ女性は胸を男性に押し付ける、その前奏の中で二人は身体を微妙に震わせている。しばらく長い低音が響き、それに乗ってナイチンゲールが魅惑的に歌い始める、そして突然陽気なワルツが始まると、目の廻るような速さで本当の踊りが始まり、抱き合った二人はその渦の中に身を投ずるのである。シュトラウスの演奏が始まろうとすると、皆の目が一斉に彼に向けられ静まりかえる、その一瞬は、礼拝の瞬間にも似ている。この息子のヨハン・シュトラウスとはどんな人物だったのかと、きっと後世の人々は尋ねるだろうと私は自分に云い聞かせた。ナポレオンの風貌は古代ローマ人のそれで、パガニーニがロマンチックで月光の様な印象だとするならば、シュトラウスはアフリカ人であり、熱烈で、太陽のように狂おしく、現代的で、大胆で、落ち着きがなく、醜く、そして情熱的だ。彼の事を尋ねる人はこれらの形容詞から好きなものを選べばよい。息子のヨハンはムーア人の様に色が浅黒く、毛髪は縮れて、口元が美しく、精力的で、唇はゆがみ、鼻はあぐらをかいている。若し彼の顔があんなに白くなければ、それは完全にムーア人の王であり、エチオピア人であり、完全なパルタザール(シェークスピアの戯曲の登場人物)だ。ヘロード・パルタザールからは、人の心をとらえる芳香が漂うが、シュトラウスも同じで我々の身体に住む悪魔をワルツで精神を揺さぶって追い出すのだ。ワルツが砂漠の砂嵐となってシュトラウスの指揮台、ヴァイオリン、弓、腕と脚、身体全体が震えだすと神となって悪魔を追い出すために人々の間を駆け抜け、かき回すのだ」と記録している。
 この様な華やかなウィーンの繁栄も長くは続かなかった。敗戦で平価を切り下げられるとインフレーションが起こり、数々のホールは破産し、調度品は投げ売りをされる事になる。最後まで残っていたオデオンザールも1848年10月28日失火で焼け落ちてしまったのである。それはヴィンディッシュグレーツの遠征軍が、暴動を鎮圧してウィーンに凱旋したその日の事だった。以後30年はそれ程大きくはない舞踏場や王室の舞踏室でワルツは演奏され踊られてはいたがそれまで程にはワルツ熱が燃え上がってはいなかった。それからは次第にワルツは主に劇場で演奏され、オペレッタで歌われる演奏会用が主流となってゆくのであった。
 父ヨハン・シュトラウスはエミリー・トランプッシュとの間に出来た5人の私生児と暮らしていたが、子供の一人が学校で感染してきた猩紅熱に罹って死亡したのは失火で焼け落ちた一年後の事であった。
 

U.シューベルト花占い

花占いは簡単だ、野に出て適当な美しい花を摘む。そして彼女は私を愛している、と唱えて一枚の花弁を千切る、次に愛してない、と唱えて一枚千切る。どんどん千切って最後に残ったのがどちらになるか、それが答えだ。

 いや今回は占いの話ではありません。シューベルトの「美しき水車小屋の乙女」の第6曲「知りたがる男」に出る言葉だ。彼女の心が知りたい、花に聞こうか、星に聞こうか、私は花園の花守ではない(花占い)、星に聞こうか星は遠過ぎて答えない・・・・となるが次に来る間奏のピアノのメロディーが心の底から揺さぶられるくらいに美しい。こんな優しいメロディーはない、涙が出そうになる、初めて聞いた時にはそう思った。美しき水車小屋の乙女は全部で20曲から出来ているが全体に非常に心に優しい美しい曲だ。歌詞は物語風にある男が職を求めて小川をさかのぼって行き、水車小屋にたどり着く、そこで働くうち、親方の娘に恋心を抱く、しかし片思いは一瞬で終わり、狩人の若者が現れて恋人でもないが片思いの乙女を奪われる。

 私は多感な大学時代、丁度アレキサンドル・デュマのダルタニアン物語が発売になった。その後半でアトス(実はラ・フェール伯爵の別名)の息子ラウル・ブラジュロンヌ子爵の悲恋物語が出てくる。ラウルはある貴族の娘ラ・ヴァリエール嬢と恋仲に陥る。彼女は行儀見習のために王弟の美しい奥方・英国のチャールス二世の娘アンリエットの侍女になる。ところが太陽王ルイ14世は邪な心を抱いてアンリエットに言い寄る。一計を案じた彼女は美しい乙女のラ・ヴァリエール嬢を王の元に使いに出す、この子を私の代わりに思い通りにして下さいという手紙を持たせて。ルイ14世は一度に変心してラウルの美しい恋人ラ・ヴァリエールを横取りして取り上げてしまう。当然邪魔なラウルは英国の大使館つきの武官に追いやられる。父親からの手紙で恋人の変心を知ったラウルは死ぬためにアルジェリアの戦線に志願して華々しく戦死する。帰って来た見る影もないラウルの遺骸を見たアトスは悲嘆の余りラウルの屍の上に倒れて死んでしまう。これを読んだ時、なんとこの美しき水車小屋の乙女はこの状況をよく表現した曲だ、と思った。第1曲から殆どシュトローフェン・リード即ち六甲颪のように一番から三番までおなじメロディーを繰り返すのに第19曲「水車小屋の男と小川の会話」では男が短調で悲しい気持ちを小川に語ると同じメロディーを長調でこっちにおいでここには苦しみを癒す安らぎがあるよ(即ち全ての苦しみから逃れられるよ・死)と語りかける所は本当に秀逸でこれぞシューベルトだ、と言いたい。そして死んだラウルを見るアトスの心は美しい歌集「冬の旅」全24曲に集約されている、これではすべてシュトローフェンリードではなくて微妙にメロディーに変化をつけていてより味わいが深くなっている。暗く、悲しく、しかも時には楽しかった事を思い出しては明るく、本当に純粋に恋する青年、悩む人に対する愛情に満ちたメロディーは心に優しい。シューベルトが死ぬ年、即ち1828年ピアノ・ソナタと共に交響曲ハ長調の他にこの「冬の旅」がある。ある日シューベルトは云った「今日はショーバーの所へ来給えぞっとするような歌曲を聞かせてあげるから」サロンで始めて感激した声でこの「冬の旅」を全曲を弾きながら歌って聞かせた時、友人達は余りの暗さにもう少し明るい曲を追加したらどうかと言ったら「いやこれでいいのだ、今に君達も好きになるに違いないよ」と言ったそうだ。私はフィッシャー。ディースカウが歌いピアノ伴奏をジェラルド・ムーアがするシューベルトの歌曲にはまり込んだ。実はドイツ語の試験が大学院を受けるのに必要だったのも一つの理由だったが、ドイツ語も英語も試験は通れたが、大学院は上手くいかなかった。しかしシューベルトの歌曲をしっかり意味も判って歌えていろいろの曲を知って、人生得をしました。今も大阪男声合唱団でシューベルトのドイチェ・ミサを練習していますが本当に心に染み込んで優しい。クラッシク好きの息子や甥が私に言ったことがある。僕にはどんなに苦しい事があっても音楽がある限り大丈夫だ、音楽に助けられる。しかし私に言わせれば音楽は宗教と同じで、苦しい時には何の役にも立たない。今の日本経済を眺めて手を拱いて祈っているだけと同じで、私の経験ではそんな困難な時に役に立つのは、それに立ち向かう強固な意志と果敢で俊敏な行動と邪悪な組織に対抗する頭脳集団の集結だけだろう。だけど今の官僚組織に対抗するのはまだ早い時期かな。だけど本当に苦しい時、死の崖っ淵に追い詰められ立たされた時、決して誰も助けてはくれないものだ。自分と家族しかない、モーツアルト、ベートベン、ヴェルディ、シュトラウス、シューベルト糞喰らえだ。こんな立場に追い詰められた事のない人は、本当に幸福だと思う。家族や皆様もこんな事がないことを心から願います。だけど何時か、病魔は私を倒すだろうな。手術を受けたからこそこんな弱気になります、だってどうしたって腕と手の痺れや痛みは24時間消えないから。

 同年9月には本当に病気になってしまった.以前からあった頭痛に加えて、眩睴や動悸が起こるようになった。10月にはハンガリーのアイゼンシュタットまでの3日間の旅をしてハイドンの墓の下に佇んでいた。彼の最後の作品は意外に明るい「鳩の使い」同年10月である。10月31日彼は兄弟と一緒に食事をしようとしたが食事を見ただけで吐き気を催し中毒に罹ったといって食べなかった。それ以後何も食事を取った形跡はない。ショーバーに出した手紙を見ても明白だ「もう11日は何も飲食していない。唯安楽椅子とベッドの間をぶらぶらしているだけだ。この様な絶望的な状態にある私に何か読み物でも貸してあげると言う君の気持に感謝している」

 シューベルトの治療に当った医師は宮廷医のエルンスト・リンナ・ザーレンバッハ彼本人が病気になってしまったので、軍医大尉のジョーゼフ・フォン・フェーリングとヨハン・バプティスト・ヴィスグリルであるがやった治療の内容は・・茶・瀉血・発痘膏・芥子包帯・・・今時の医学から言えば死にかけている身体を死ぬ方向に押しやっているようなものだ、怖ろしい事を。逆に輸血と輸液で元気になれたのではないか。最後に見舞いに来た友人はバウエルンフェルトとラッハナーだった。シューベルトは錯乱していて「いや、それは違う、ここにはベートーベンは寝ていない」といって壁を掴みながら云った「ここが私の最後だ」シューベルトの父親の記載した家族目録によると1828年11月19日午後3時神経熱により死亡、22日土曜日・埋葬とある。神経熱という病気は現在存在しない。直接の死因は栄養失調と脱水でああろう。遠因は性病とも言われている。

 ベートーベン同様、彼の死を新聞は全く報道しなかった。死後10年経ってからローベルト・シューマンはフェルディナンド・シューベルトの所で交響曲ハ長調のスコアを発見し、これを{音楽新報}で燃えるような熱情的な文章で紹介した。そして1839年にライプツィヒ・ゲヴァントハウスで処女公演を行った。シューマンは「時よ!汝はかくも数知れぬ美しき者を生みたもうた。されどシューベルトの様な楽聖を再度この世にもたらしはしない」と述べている。

V.悪魔に魂を売った男パガニーニ

ヴァイオリン協奏曲はベートーベン、メンデルスゾーン、チャイコフスキー、ラロ・スペイン交響曲などが何を言っても文句なしに良い。演奏者の良し悪しで好みが変る。モーツアルトのヴァイオリン協奏曲も良いが、意外な掘り出し物はニコロ・パガニーニ(1782~1840
)である。私のようにメロディーさえよければ感激する単純な男にとってはパガニーニ位、素晴らしい作曲家はない。
 大学生の時パガニーニのヴァイオリン協奏曲第一番を聞いて感激した。続いて第二番(ラ・カンパネラ・鐘)も買って聞いてみた、すごかった。音楽の友社の楽譜世界音楽全集のヴァイオリン協奏曲集を調べると彼は第六番まで作っているのに現存する楽譜はこの二曲だけだそうだった。というのはニコロ・パガニーニは自分の曲が他人に盗まれて演奏される事を極度に嫌い、自分が演奏する時も演奏会当日にオーケストラに楽譜を渡し、少し練習するともう本番、演奏が終われば直ちに楽譜を回収してしまって写譜させないのが常であったからです。だからオーケストラは美しいメロディーの序奏をしてニコロの弾く威風堂々としたヴァイオリンが登場すると四大協奏曲のようにヴァイオリンとオーケストラとの掛け合いの楽しみなど全くなく、オーケストラは簡単な和音を演奏してニコロの弾く超人的な技巧を要する天国的な美しいメロディーを奏でるヴァイオリンを引き立てるだけであります。即ちオーケストラはお添え者の役しか果たしていないのです。だからパガニーニは軽く見られていますが、メロディーの豊富な事、演奏が困難である事は彼の右に出る曲はないでしょう。左手ではじくピチカット(普通は右で弾くものですが)、フラジオレット奏法(指で押さえた所の丁度半分の所を他の指で押さえて弾いて1オクターヴ上の超高音を出す超難奏法)とこの奏法を含む二重奏法の速くて飛ぶ音の変化を多用した難曲ばかりなのです。残る4曲の協奏曲も今では段々と貴族の書庫や楽譜屋の倉庫、博物館の片隅などで発見されてCDになっている。お薦めのCDはアッカルド(二十年位前のパガニーニ・コンクールで第一位となってパガニーニ財団から特別にパガニーニ愛用のヴァイオリンを貸してもらっている)が指揮シャルル・デュトワ演奏のシリーズが私のお気に入りです。
 彼もモーツアルトのように父親によって天才少年として売り出され、父親の飲酒遊興費を稼がされていたが、17歳になったニコロは父から脱出して独力で生きて行きます。天才の名ヴァイオリニストで長身で美男子の彼は22歳までナポレオンの妹エリーザであるバチオッキ公爵夫人に愛され、夫である公爵のヴァイオリン教師として雇われ、夫人の男妾として3年間何不自由のない甘い生活を送る。そこで多数のギター曲を作っている。大抵のヴァイオリン・ソナタはピアノ伴奏だがニコロのソナタは6曲がギター伴奏になっている、即ち彼はギターでも一流の演奏家だったのです。ある時に相棒のギタリストが言った、「パガニーニさん次は私がヴァイオリンを弾く曲を作って貴方がギターを弾いてくださいよ」「よし判ったそうしよう」次に出来てきた曲は何とヴァイオリンが伴奏する様な美しいギター曲で演奏するのにテクニックを要する難曲だった。女にもてたニコロはある女性に「愛のデュエット」と言う曲を作ってやり、その名曲を演奏する。これはG線(太いニコロの声)、E線(高い彼女の声)他のA線とD線の二弦は外してしまって二弦だけで男女が愛の言葉を交わすような魅力的な曲を演奏した。ニコロの心離れを察知した公爵夫人は自分の妹に当てて紹介状を書いて追い出してしまう。トリノに居る妹の大公妃ポリーヌもまた彼の腕にぞっこん惚れ込み半年間男妾として彼を飼う事になる。ナポレオンの妹二人をものにしたニコロは31歳まで別の女の所に居候を決め込む。次にミラノに出現した彼は次々と演奏会を開く、彼の容貌は薄気味の悪い怪奇さをたたえてくる。妙に長い腕、蜘蛛の足の様に細い指、鋭く尖った顔つき、そんな顔を肩までかかった黒い頭髪が取り囲む、という風な不気味な風体で、蛇と人間の容姿が入り混じった妖怪が這いつくばって美しい音色でヴァイオリンを演奏する。彼が作った「魔女の踊り」が演奏の難しい難曲の上に美しい名曲であったので、悪魔に魂を売った名ヴァイオリニスト、悪魔と契約した男、悪魔と連れ立って歩いていた、彼の演奏会場で舞台の袖に悪魔が立っているのを見た、等と悪評を立てられる事になる。Charm とかenchantと言う単語は人を魅了すると言う意味と人に魔法をかけると言う両方の意味があるのも頷ける事です。その当時はまだ演奏会場の照明にはローソクを灯していたし、魔女裁判も行われていたのだから。
ニコロの演奏は女性達を失神させただけでなく、演奏を聞きに行った多くの音楽家、モーツアルト、リスト、ショパン、シューベルト、メンデルスゾーンたちをも感動の坩堝に放り込んだ。シューベルトはこんなアダージオを美しく弾く演奏は初めてだったと書き残している。悪魔憑きの男、女たらし、けち(パガニーニをもじってパガニエンテ、即ち一銭も払わない男)と言われた人も実際は何度も慈善演奏会を開いて収益金の全額を寄付した記録が残っている。シューベルトの一生の収入575ポンド、ニコロは一回の演奏会で300グルデンを稼ぎ8回演奏会をすればシューベルトの一生の収入を上回った。ベートーベンの第9交響曲の初演は満席であったが420グルデン、同じ頃ニコロのロンドンでの14回の演奏会の収入は9万グルデンで桁違いに多かった。ベルリオーズの幻想交響曲を聞いて感動してしまったニコロは貧乏のどん底にいた彼に2万グルデンをぽんと寄付してやった。
ヨーロッパ中を演奏して廻って莫大な名声を博し大儲けした彼は22個のストラディヴァリウス、グァルネーリなどのヴァイオリンやギター等クレモナの名器を買い集めて残した。晩年のニコロは種々の病気に苦しんだ。アシュモフによれば彼の持病はマルファン症候群であったため、高い身長、筋肉の弱い痩せた身体、長すぎる手足、関節の動きの異常な滑らかさが備わっていたので怪異な容貌になり、悪魔に魂を売ったような名演が出来たようだ。57歳でニコロが死ぬと教会から葬る事を許可されず、36年間もニースの海岸の廃屋に放置され、悪魔、異端者として扱われた。1876年にやっと人間としてパルマの墓地に埋葬された。
ニコロの曲に心を奪われた作曲家は沢山いますがショパンのパガニーニの主題による変奏曲・・・・これはニコロの作曲したヴェネチアの謝肉祭による変奏曲で本当に我を忘れてうっとりと聞き惚れてしまいます。ニコロは自分のヴァイオリンの調弦を全て半音上げて行い、オーケストラには半音高い調性の曲を演奏させたのも彼の演奏に輝きを増した秘密の一つでした、例えばヴァイオリン協奏曲第一番は変ホ長調、でも彼はそれをニ長調の如く弾いていた、半音上げたヴァイオリンで、ヴァイオリンはそのほうがずっと弾きやすいからです、現在はオーケストラを含めてニ長調で演奏されています。ニコロは驚くほどの美しいアダージオを演奏したがその秘密はどうも今では余り用いられなくて声楽と弦楽器と管楽器ではトロンボーンにしか使えないポルタメント奏法(無音階的に音程をずり下げる、又はずり上げる奏法で、音程を外す危険性があり現在では日常的には正式の奏法とはされていない)を非常に上手く使ったと言われているのです。だから動物の鳴き声をヴァイオリンで真似して出すのが非常に上手だったそうで演奏の間にそれを入れて観客を笑わせたそうです。ある時コケコッコー、牝鳥のコッコッコ、豚の鼻声、牛の鳴き声等を鳴らして笑わせていたが、ついでにロバの鳴き声までやってしまった。場所が悪かった、フェラーラの町の人々は他所の町からロバと嘲られていたので怒った観客が舞台に突進、彼はほうほうの態で逃げ出したそうだ。まあ彼は言わば音楽的に大道芸人の技術が極度に卓越した人物だったと考えられます。現在では音楽家は芸術家として尊敬され収入も巨額に得ている人も多いのですが、元はと言えば大道芸人の一種で賎しい職業とされていたのでした。同じ様にピアノの曲芸師リストも矢張りニコロに触発されてパガニーニの主題による超絶技巧練習曲集6曲を作りました。いずれも魂を奪われそうな至福の時間を得られますよ。
 もう一人睡眠中に夢の中で悪魔にヴァイオリンを演奏させて、それを思い出しながら素晴らしい曲を作った男がいる。それはジュゼッペ・タルティーニで寝ている時に悪魔にヴァイオリンを渡して弾かせたところ素晴らしく美しい曲を弾いてくれた。すぐに目を覚まして自分でヴァイオリンを弾きながら思い出して曲を写したが、悪魔の曲はもっと美しかったそうだ。その曲は「悪魔のトリル」としてよく知られている。彼はパドヴァのオーケストラのコンサートマスター兼指揮者で18世紀を代表する二弦重奏法を初めて使った名ヴァイオリニストだったがフェンシングで手に負傷をしてからヴァイオリン教師になった。ヴァイオリンの教則本多数は今も使われている上、ヴァイオリン協奏曲150曲も作ったがあまり演奏はされない。
 私にはパガニーニの作品群は宝の山のように思えるのです。騙されたと思って聞いてみて下さい、駄作など一つもなくうっとりする様な名曲ばかりで美しいメロディーの中に悪魔の哄笑や魂を奪われそうになる甘い囁きその上に良心を無くして失敗した犠牲者の悔悟のすすり泣きが聞こえますよ。
 

W.鍵盤の魔術師フランツ・リスト

 ハンガリーの田舎から少年時代にパリへ連れてこられてピアノの天才少年として売り出されたリストはパリの音楽院への入学を院長ケルビーニによって拒まれてしまうが、その演奏を聞いた人々に賞賛されて、少年天才ピアニストになってしまう。青年になったリストはパガニーニ同様のすらりとした長身で、リストに見つめられると彼のオーラにかかってふらふらと寄って行ってしまう、そこで彼の周りには女達が群れ集まってきた。これはパガニーニの場合とそっくりで、第一にリストの演奏の巧みさの魔術にかけられ、第二に彼の容姿の端麗さにうっとりとなってしまって寄り集まり、演奏中に失神してしまう女性まで数多く出たのだった。リストは相手になってくれる美女には困らなかった。例を挙げるとバイエルン王やスペイン王の寵妃で当時のあちこちの有名人と浮名を流した美女ロラ・モンテス、椿姫として23歳で死んでもデュマ・フィスとヴェルディのお陰で後世に名を残した高級娼婦マリー・デュプレジともリストは深い関係を持った。
 リストは当時の楽壇の問題児ベルリオーズを始めて訪れたのが「幻想交響曲」初演の前日の事だった。ベルリオーズの回想によると「彼にはそれまで会った事は無かったが、私はゲーテのファウストの話をした。彼はまだこの本を読んでいなかったが間もなくこのファウストに夢中になった。私たちは大いに共感し、以後私たちの友情は増すばかりだった。彼は幻想交響曲の初演の夜も会場に来てくれて、熱心に拍手をして、聴衆を煽ってくれた」という事になる。二人はファウストに心酔してベルリオーズは何度も書き直してついに「ファウストの劫罰」を書き上げる。
 一方リストはファウストの村の居酒屋の場面・ブランダーの酒場・有名なノミの歌の場面であるが・ここに非常なと言うより、異常な興味をひかれて一生を送る事になる。老人のファウスト博士は悪魔メフィストフェレスに魂を売り渡す代償として青年として生き返る。
狩人の姿をした悪魔メフィストが居酒屋の窓際で様子を見ている。「中は楽しそうにやってるな。では我々も仲間に入るとするか。イッヒッヒ」と云いながら中に入り「あの若い女は身体がうずうずしているぞ。お前の書斎の学術書よりはずっと味が良いぞ」ファウストもそう云われて踊っている若者の中に入りたくてうずうず身体がし始める。メフィストはワルツを演奏している楽士達のところに行って「お前らのワルツのひき方は何だ、寝ている様じゃないか、俺にそのヴァイオリンを貸してみろ、俺が弾いたらこんなに良い音楽になるんだぞ」とメフィストは一挺のヴァイオリンを取り上げると華麗なワルツを弾き始める。場内に官能の大波が押し寄せてファウストは美少女グレートヒェンと踊り出し、愛の言葉を誓い、ヴァイオリンの音に誘い出されて踊りながら外に出て森の中に入っていく。フルートの様なナイチンゲールの声(愛の営みの象徴)に包み込まれる。
 リストは十年に渉るヨーロッパ演奏旅行の果てにキエフでカロリーネ・フォン・ザイン=ヴィトゲンシュタイン大公妃に出会う。彼女に誘われてウクライナの別荘で過ごして自分の人生をやり直すことにする。パガニーニの去った後の魔術的天才演奏家で日に二度も演奏会を開き、二週間で十回もコンサートを開いて大儲けしていた演奏家としての生活に決別し、音楽家として後世に名を残す作曲家として専念し、別に聖職者になろうと志す。この決心は私が医者を辞めて四柱推命の占い師になりたいと思うほど馬鹿げているのであるが、本人は至って真面目で54歳の時に遂にヴァチカンから神父の資格を得る。
 それでも純真な乙女の心を悪魔が弾くヴァイオリンの曲でたぶらかすというお話は彼を含めた多くの音楽家達の心から離れず。ベルリオーズの幻想交響曲(夢想と情熱、舞踏会、田舎の風景、断頭台への行進、サバト・魔女大集会の夜の夢の五楽章から成立)ファウストの劫罰、グノーは歌劇ファウストを完成する。リストはファウストの話をベルリオーズから聞いてすぐに村の居酒屋という曲を作るが、この場面を主題にした曲を書き始めるのは、不埒にも聖職者になりたいと決心してからなのである。彼は70歳といういい年になるまでメフィストワルツ第一番から五番までも作りその上メフィスト・ポルカまで作るのである。
 まあリストのこれらの曲を聞いてみて下さい、悪魔の弾くメロディーに取り憑かれる事請け合いですぞ。リストは故郷のメロディーを使ってソナタ、ピアノ協奏曲、ハンガリー狂詩曲など沢山作曲したがシューベルトの歌曲もピアノ用に編曲している。美しき水車小屋の娘、冬の旅、魔王、鱒、「鱒」等シューベルト自身がピアノ五重奏曲で作っているのにと思うが、リストのはピアノが歌曲を歌い、もし音域の広い超人的な歌手がいて超人的技巧のピアニストが伴奏するとしたらシューベルトはこの様に華麗な音楽的装飾音を使ったであろうと考えられる位に美しい曲に編曲してあって感心し又非常に感動する。皆様も一度聞いてみたら病み付きになる事請け合いですぞ。ベートーベンの交響曲全曲のピアノ用編曲もありますが矢張りオーケストラの方がよい。
 岡田君が始めて学会で初めてウィーンへ行ってきた時の土産話で面白いのを聞いた。「おい橋本、ウィーンでは車掌までがシューベルトの歌曲を知ってるぞ。市電に乗ったら車掌がWo hin・いずこへ(水車小屋の娘第一曲)と言うではないか。俺びっくりして耳を疑ったよ。しかしよく考えたら「どこまででっか」と乗車券を売りに来たのだったよ」
 話は変るが、医療事故やミスに対して事故防止委員会など各病院で対策を講じているが、私に言わせれば噴飯物だ。先ずは戦前のままの医療従事者の数である、従業員数を欧米の如く今の十倍にして深夜も昼も同じ仕事が出来る体制をとれば一挙に解決するのは誰が考えてもわかる事だ。
但しそれだけの贅沢をするのなら、それに見合った医療費の高騰は避けられないが、金は出さん、でもミスをされるのは真っ平ごめんだ、と云う二律背反の要求には応じかねる。現在の世の中は、五代将軍綱吉の生類憐れみの令の時代に逆戻りして、動物実験は自由に出来ない、鯨、マグロ、フカの鰭、 ツバメの巣、等取って食うのは条約違反になるらしい。そして犬やネコが病気になると平気で数万円も支払うくせに事、人間となると百円で文句云うのだ。何しろ医学がこれだけ発達して人員を必要としているのに削減するのだからスイッチの押し間違いもいいところだ。それを声高に誰も言わないからここまで追い詰められたのだ。先輩達の「のほほんとしたぬるま湯的対応」のツケが廻っただけなのだ。じゃあどうすればいいのかって言われると困るが、このままの状態が続き、政府の対応が従前の如くで「国家破産が起こる」と想定してしっかりと医師会で(無理かも知れんが)対応策を考えておいた方がよろしいね。
昔から洋の東西を問わず、医者を見る眼は辛辣で悪意に満ちている。特に昨今のマスコミへ官僚が流す情報や報道態度は厳しい。我々医師もこれをよく理解した上での行動を取るべきであろう。今まで言われた有名人の言葉が目に付いたので列挙しておきます。

 世の中で医者ほど幸福な人間はいない。成功すれば世界中が誉めたたえ、失敗すれば世間が蓋をして覆い隠してくれる。(フランシス・クワールズ)
 医者はあんまり知りもしない病気を治そうとして、何も知らない薬を、全然知りもしない人体に注ぎ込むのだ。(ヴォルテール)
 医師は高尚な品格を持ち合わせない、破廉恥な性格の職業である。(バーナード・ショー)
 医者は低俗な職業で、階級や地位を得るためによく利用される。医者は常に尊敬されるし、社会の重要な地位を保証されるので、沢山の人々が魅惑されるのだ。(ジョナサン・ミラー医師)
 医者とは不愉快な職業である。金持ち相手の診療はごきげんとりのように見られ、貧乏人相手の場合は盗賊のように思われる。(ルイ・フェルディナン・セリーヌ医師)
 医学とは憶測から出発し、殺人によって進歩するものである。(アンソニー・カーライル卿)
 ただ一人の医者は一本の櫓ではしけを漕ぐ船に似ている。患者の症状は長引き、患者はゆっくりと死んでゆく。だが二人の医者は一対の櫓のように能率的である。患者はずっと早く三途の川へ漂い着くのだ。(作者不明)
おのが創造主の御前に罪を犯すものを、医者の手に陥らしめよ。(「シラの書」38・15)
 医者は職業人であり、殺人大学卒業生である。(シドニー・スミス)
 医者たちは全て無能な木偶(でく)の坊である。(「宝島」のビリー・ボーンズ)
                      
           これらはリチャード・ゴードン著世界病気博物誌よりの抜粋です。面白い本で御一読をお薦めします。
 

2000年10月       レクイエム        橋本聰一

 レクイエム「死者のための鎮魂ミサ曲」は多くの作曲家が作品を作っている。モーツアルト1曲、ケルビーニ2曲、フォーレ1曲、サンサーンス1曲、シューマン1曲、Rシュトラウス1曲、ヴェルディ1曲、プッチーニ1曲などが主なものである。
 私達夫婦は最近つくづくとこの世の無常とはかなさ、共に過ごした時間の短さを語り合ったものでした。若い時は家の宗派が何であろうと関係なく、知ろうとも思わなかったが、橋本家は浄土宗、妻の実家は真言宗、母の家は浄土真宗、父の墓は黄檗山・満福寺にある。
日本でも昔は宗教上の意見と利害の対立で戦争までしていたのに、今の宗教家は完全に堕落しきっていて、民衆に対する教育(宗教上の戒律はともかく、生きていくための最低限のルールの教育・即ち説法)すら放棄しているように見えるのです。観光業や冠婚葬祭業や政治屋業のみに徹しているとしか考えられない宗教法人は絶対に納税させるべきだと考えます。 
 大学時代に大原の寂光院に行った時に、尼僧が色々故事来歴を解説してくれた後で何か質問はないかと云った。私は手を上げて「ここまで来た道は非常に狭かったが、防火対策はどうなっていますか」と聞いた。「縁起でもない事を聞かないで下さい」とろくに考えもせず一蹴された、もう40年以上も前の話である。ところが私の危惧したとおり先日、国宝の寂光院は焼け落ちてしまった。タクシーの運転手の話では、バブルがはじけて寂れてしまった北新地、南、祇園、で豪遊しているのは京都、奈良、大阪、のお坊様であると云う事である。国民の財産である国宝の秘宝を開陳して金を取って拝観させる。これでは女の秘宝を金を取っているストリップと何等変わらないのではないか。すこし卑猥すぎる比喩だが、事実だから仕方がない。世界の美術館の有名絵画を本物以上にそっくりにハイテクで1074点も陶板に焼き付けて展示してある徳島の大塚美術館と同じく、古都の古刹にある国宝や重要文化財は全て保管状態の良い美術館に預かり、本物そっくりのハイテク造りの偽物を坊主に持たせて拝ませておけばよい。本物を焼いてしまうより仏罰は当たらないし、1500度で焼いた陶器であるから消失する事はないと思うのだが。
 話は大分本題からそれた様だが、ヴェルディのレクイエムは彼が自分の友人として付き合っていた、偉大な歌劇作曲家であったロッシーニが1868年11月13日に亡くなった時、イタリアの作曲家たち12人に鎮魂ミサ曲を1楽章づつ書きロッシーニの故郷ボローニャで演奏しようと提案したのであった。しかしどの作曲家も一銭の得にもならないこの計画を実行しなかった。ヴェルディは自分の担当の部分である「リベラメ・我を解き放ち給え」「永遠の安息」「怒りの日」は作曲していたのであった。結局レクイエムは作られなかったが、1875年5月イタリアのもう一人の栄光である詩人アレッサンドロ・マンゾーニが死ぬと、ヴェルディはミラノに出かけ彼の墓に参詣した上、ミラノ市に無償でレクイエムを作曲し彼の命日に演奏したいと申し出た。そしてロッシーニ追悼のために作ってあった部分を全面的に書き改めて、他の作曲家の担当部分は自分が全部新しく作って完成されたのがこのヴェルディのレクイエムなのである。この曲はヴェルディ自身の指揮で1874年5月22日にミラノ・サンマルコ聖堂で初演されて絶賛を博した。聞けなかった人々のためミラノ・オペラ座で3回の追加演奏が行われた。その後も評判は評判を呼びヨーロッパ各地で演奏しなくてはならなかった。パリでは8回も演奏されれて、彼はレジオン・ド・ヌール勲章を授与された。多くの人々はこの曲を絶賛したが批評家のハンス・フォン・ビューローはこの曲を酷評した。その批評を読んだブラームスはこの曲の楽譜を取り寄せ良く研究した後に「ビューローこそ笑いものだ。ヴェルディのレクイエムは天才的な作品だ」と叫んだと伝えられる。
 私はこの曲ほど美しさの中に哀しみと神に対する畏敬に満ちたレクイエムはないと思っています。だから子供たちには私が死んだ時には意味のわからぬ読経など不要でこの曲をかけてくれ、そして暇な時に家にあるCD,LD.DVDを全てかけて欲しいと云ってある。何故なら私は神も仏も信じられず科学狂、乱読狂、何でも狂、音楽狂の信者らしいから。だけど何カ月かかるかな、私も子供も大変忍耐の必要な事になりそうな気がするのだが。できなければ途中でやめてもいい事にするかな。
 

リゴレット

これはヴェルディのオペラの中で最も成功した、円熟期に書かれた、ポピュラーな歌劇である事は云うまでもありません。原作はヴィクトル・ユーゴーの戯曲「王は楽しむ」であります。当時ヴェルディはこの戯曲を読んで、これはシェークスピアにも匹敵するすぐれた作品で是非とも歌劇にしたいと思った。ヴェルディはジュゼッピーナと1849年9月にイタリアに戻ってきたが、村人たちの目は冷たかった。その直後で彼はサルバトーレ・カンマラーノに台本を作ってもらいたい(以前にヴェルディのアルツィラ、レニャーノの戦い、ルイザ・ミラーの台本を書いていた)と思ったがヴェネチアのフェニーチェ劇場と契約することになってその専属台本作家であったピアーヴェに、この戯曲を「呪い」として上演する契約を結んだ。
 このピアーヴェの作った台本を読んだヴェルディは「最も素晴らしい台本の一つだ。但し、台本を構成する詩は別だが」と辛辣に言わしめた。これ以降、彼は台本の一語一句にも気を付けて台本に口を挟んで作曲している。これは台本をよく吟味もせずに作曲してしまっていたJ・シュトラウスとは全く違うところで、ヨハンはオペレッタの中の大量のワルツとポルカ・行進曲・間奏曲だけを残し、ヴェルディは円熟した歌劇を残す結果となった。又、ヴェルディは当然、消え去るべきオペラ群、過去の物になったオペラ群、未来にまでヴェルディと共に残る作品群に分けてしまう事になる。
 しかしヴェネチアを支配していたオーストリア検閲当局、特に最高指導者リッター・フォン・コルツコフスキーはあらゆる手を用いて無駄な抵抗をする事になり、ヴェルディには厄介な問題となったのです。現代では歴史的に見て検閲をして言論を圧殺する時代はもうほとんど終焉に近いと思うのですが、いまだに近くの国々では不幸な状態が続いていますね、共産主義なんてロシアでの壮大にして馬鹿げた国民を犠牲にした実験で終わったはずなのに姿かたちを変えて、不思議としぶとく生き残っているのですね。
 しかしヴェルディとフェニーチェ及びピアーヴェはあらゆる手を尽くしてユーゴーの戯曲通りの台本にしてしまった。しかし当局はそれを提出させた上で総督は上演禁止令を出した。理由は不愉快極まりない不道徳で、且つ公序良俗に反する些末な事件を筋書きにしているからであるという至極まともなものであった。しかしヴェルディには、好色な領主と清純な娘、それにせむしの父親との対比、その結果生じる悲劇が絶対に必要だったのです。そこでピアーヴェは国王フランソワ一世を単なる一貴族にして、道化師トゥリボレットを不具者にしない、などの改変をしてヴァンドーム公爵を作り上げて再提出し承認させたが、今度はヴェルディが納得しない。彼は好色な君主が放恣の限りを尽し、道化師には誇り高い内面と醜悪な外見があり、しかも愛する娘がその君主に純愛を示す事に価値を見出していたからであった。そこでフェニーチェ座とピアーヴェは当局と折衝を重ねて「物語の場所と時代を変更する事」を条件として許可を取り付けた。
 そこで実際には、フランスのフランソワ1世はマントヴァ公に、せむしの道化師で、わが娘を溺愛するが、宮廷では男女の仲を取り持ち公爵へのおべっか使いで身を立てているトリプレットはリゴレットに名を変えられ、その娘ブランシュはジルダに変名させられる。国家的偽善者の廷臣ジャン・マロはマルロに、そして呪いの言葉を発するアンリ2世の愛妾ディアーヌ・ボワチェの父ド・サン=ヴァリエはモンテローネへと変名させられる。当然の事ではあるが悲劇の現場はパリからイタリアのマントヴァに移される。
 さて実際の歌劇ですが、前奏曲は短い「呪い」のテーマを不気味な金管楽器の重奏によって奏でられ直ちに開幕する。幕が上がるとマントヴァ公の館で行われる華やかな舞踏会の場面です。舞台裏の愉快な舞踏曲が流れ、淫蕩な公爵が華やかに歌う有名な二連のバッラータ「あれか、それか」それが終わると公爵がチェプラーノ夫人に云いよる優雅なメヌエットがあり、廷臣たちはリゴレットの愛人を見つけた話をし始め、リゴレットは公爵にチェプラーノを流刑か処刑してしまえと助言する。陽気な音楽と舞踏曲で楽しんでいる、そこにモンテローネが娘を辱めた公爵を非難するために乗り込んでくる。リゴレットの皮肉な対応に対してモンテローネは呪いの言葉を吐く。これにショックを受けて動揺するリゴレットの言葉の音楽、根底に流れる陽気なメロディー、各種の思いが渾然一体となった見事に豊かな音楽は統一が取れていて感動させられる。第二場は人影のない路地で帰宅途中のリゴレットは刺客スパラフチーレに出くわし「何か仕事はないか」と尋ねられる。「用事はない」と断るが心底「あの老いぼれが俺を呪いやがった」と恐ろしそうにつぶやく。帰宅寸前に「あの男は剣で、俺は口で人を殺す」と自虐的なモノローグを歌う。そして出迎えた愛娘ジルダとの再会の明るい二重唱から「お前の優しかった母親を思い出させないでくれ」と二人は歌う。公爵が侵入して来た物音に気が付いたリゴレットは屋外へ様子を見に行く。女中と二人になったジルダは教会で出会った秀麗そうな男が普通の家の男であればと願うが・・・そこに入れ替わりに公爵が現れ「貴女の愛は心の太陽、人生の全て・・・」と、ジルダへの思いを打ち明け二重唱が始まる。それが終わると二人の別れのカバレッタ「お元気で・・・・・貴女だけが私の希望」と二人が歌う。ジルダは一人になってジルダは「愛しい人の名は」と云う有名なアリアを歌うがこれについては、どの本にも十分書いてあるのでこれ以上は書くのを躊躇します。リゴレットは家近くまで帰って来ると廷臣たちが集まっていて、チップラーノ夫人を誘拐する手伝いをしろと誘われて仮面をつけられ梯子を押さえている役を命じられる。梯子は実はリゴレットの家の壁に立てられている。「ぬき足、差し足、いざ復讐だ」と男声合唱をしながらジルダを担ぎ揚げて逃げ出す。ジルダの「お父さん、助けて・・・」という声を聞いて、やっと騙されたと気が付き、「ああ、呪だ・・・」と倒れこむ。
 第二幕 冒頭に公爵がシェーナとアリア「彼女は私から拐われてしまった、・・・あのまつ毛を伝って流れる涙が目に浮かぶ」を魅力的に歌う。そこへ廷臣達がリゴレットの愛人(実はジルダ)を攫って来ましたと力強い男声合唱で報告する。それを聞いて公爵は喜びと期待に満ちたカバレッタ「力強き愛が私を呼んでいる」とテノールのアリアでは一番良いカバレッタだと思うのに、大抵の公演ではあまり聞けない。こんなに良い歌を聞けないのは何だか値切られた感じがする。声に無理が掛かる為か、筋にはあまり関係がない為か、岡田君と観た時も省略して値切られた。そこに愛娘を探しリゴレットが登場し「ラ、ラ、ラ、ラ、ラーー」と道化師らしく歌うが、歌詞は道化でもメロディーは心を表してむせび泣きと悲痛さそのものである、リゴレットと言えばこのメロディーが真っ先に出てくる。リゴレットは廷臣達に激昂し、毒づき、娘を失った父親の悲しみを訴える。そして有名な「悪魔め、鬼め」を歌う。彼らが嘲笑う中で公爵に凌辱を加えられたジルダが一室から飛び出して来てリゴレットの腕の中に飛び込む。リゴレットは「これが我が愛娘だ」と叫び、廷臣達に出て行けと、厳かに命令する。ジルダは「神様の日は何時も教会で・・・彼に会いました」と二重唱を歌い始める。リゴレットは頑なにこれを拒否し、メロデイーは浄化されたような美しさを取り戻すが、投獄されるためにモンテローネが通過すると、二人は公爵の絵を睨みながらカバレッタ「そうだ、復讐だ、この心が望むのはすさまじい復讐のみ」と歌って第二幕を終える。
 第三幕 人気のないミンチョ川の土手 公爵にまだ好意を持つジルダに公爵の正体をみせてやると云ってスパラフチーレの宿を覗かせる。そこには公爵とスパラフチーレとその妹のマッダレーナ・淫売婦が居て公爵は有名な「女心の歌」を高らかに歌う。この歌以外には陰鬱なメロディーで満たされている。美しいヴァイオリンの演奏で始まる公爵とマッダレーナの二重唱「いつだったか、思い出せば確か」が陽気に始まり、そこに抒情的な「愛する麗しき娘よ」とリゴレットとジルダの全く対照的な二重唱が加わって四重唱になる。公爵の情熱的で抒情的、ジルダは「すすり泣く」アポッジャトゥーラで打ちのめされた気持ち、リゴレットは朗唱風で冷静、マッダレーナの淫らな歌唱が渾然一体となる。稀に見る名四重唱である。リゴレットはジルダにこの町を出て自分を待つように言い聞かせて去らせる。スパラフチーレとリゴレットは殺人の依頼と金額の相談をして別れる。公爵は「女心の歌」を口ずさみながら、マッダレーナの床に入って寝入る。天気は急に悪くなり嵐になる。マッダレーナは兄に男ぶりの良い公爵の身代わりを立てて助けようと頼む。スパラフチーレはこんな嵐の夜にでも来る人がいればその人を身代わりにする事に相談がまとまる。ジルダはもう一度その場に戻って来るが、その相談を立ち聞きしていたジルダは自分が身代りになる事を決心する。そして嵐のさなかに戸を叩き・・・・剣で刺される。リゴレットは頃を見計らって現れ、公爵の死体の入った袋と交換に金を払って意気揚々と川に捨てに行く。その時勝ち誇ったような公爵の歌う「女心の歌」が聞こえてくる。アッと驚き袋の中を覗くと、何と!!!刺されたジルダが現れる。二人が悲嘆しながら歌う「お父様を騙したの・・・・優しいお母様の所に行きます」と最後の力を振り絞って二重唱を歌って息絶える。リゴレットは「呪われたのだ」と云って身を捩って倒れて幕となる。
 ヴェルディはAdioさようなら、やBuouna Notteおやすみ、にどれだけ沢山のメロディーを作っただろう。リゴレットの第一幕で公爵とジルダのカバレッタにおけるAdioは底抜けに明るく開けっぴろげであたりをはばからない、それに比べ椿姫の第二幕でのそれは悲痛そのものである。運命の力、アイーダ、オテッロ、マクベス、ドン・カルロ、トロバトーレ、仮面舞踏会、シチリア数え上げればオペラの数位の別れの言葉にメロディーを付けているが、私の最後の時には矢張り椿姫の第二幕のメロディーがふさわしいだろう、心にジワリと沁み込む感情がよく出ているからです。
 最近ではイタリアでも町おこし運動が盛んで、その一つとして実際はパリで起きた事件なのに、オペラ以外では何の関係もない要塞町マントヴァの山頂には公爵邸が建てられ、町の門の前にはスパラフチーレの銅像、ミンチョ川のほとりにはジルダの死体を入れた袋を担いだリゴレットの銅像が建ててあるのを雑誌のグラビアで見つけて保存してあります。
岡田君と最後に行った音楽会はフェスティバルホールでのリゴレットでそのパンフレットをやっと探し出した。岡田君は何時になく自分のお父さんの故郷は藤井寺であの辺には岡田姓が多いのだ、と妙な話をする。今にして思えばあれは遺言みたいな会話だったのだ。車は丁度、赤畑町に差し掛かる頃だった。パンフレットによると、演奏はソフィア国立歌劇場で2005年12月3日だった。この演奏で主役のリゴレットを歌ったマウロ・アウグスティーニが一幕で急に喉に痰をつめた様に一音だけ歌わず、後は再び何事もなかったように歌い終わったと思ったが実際は大分不調になった様だった。第二幕からアレクサンドル・クフネフに代わったが演奏は見事に継続されて違和感はなかった。「タイトル・ロールが替わるのは初めての経験だね、でも流石にヨーロッパの歌劇場は底力があるね」などと話し合いながら、私は痛い足を引きずり、岡田君は歩くのが遅かった。 
 いつも思うのですが、どうしてフランス料理のシェフは我々の会話に割り込んで「これは○○の××ソース煮を△△であえたものです」などといらぬ講釈を垂れに来るのだろう。「そんな講釈はどうでもいいから邪魔をしないで会話を続けさせて、勝手に食わせてくれ」と云いたくなる。そうでなくとも岡田君との最後の晩餐になった食事だったのに。二人でロイヤルホテルの一番上で遅い食事をとって岡田君の家まで送った。そして岡田君の新居に初めて入れてもらった、部屋に大きな犬がいて、地下に岡田君の車庫と書斎があって、学生時代に岡田君が弾いていたアップライトと新しいグランドの二台のピアノが置いてあった。ステレオも以前そのままの姿だった。岡田君は「どうだ、懐かしいだろう」と云ったのを、つい昨日の様に思い出します。
 話はそれましたが、リゴレット、これはあらゆるチャンスを掴んで聞く方がお得ですよ。