桂豊名誉会長を偲ぶページ
 


大阪男声合唱団第2回定演(2002年)
 賛助出演 ルナ・バロック合奏団

OB会のメンバーも多数参列し、9月5日(日)前夜式では、本城正博氏(パナソニック合唱団常任指揮者)の指揮で、9月6日(月)告別式では、青山令道氏(OB会会長・大阪男声合唱団団長)の指揮でMuss i dennを合唱し、桂先輩にお別れしました。

 

阪大男声第1回定演 記念撮影 1953年6月

大阪大学男声合唱団50年史 祝辞
   OB会名誉会長 桂 豊

阪大男声合唱団が1951年12月27日に産声を上げてはや50年以上経ち、第50回定演も成功裡に行われました。設立に関わった一人として心よりお祝いするとともに、この上ない喜びを感じます。
敗戦6年後、まだまだ戦後の混乱期で物もない時代にがむしゃらに立ち上げた合唱団が、その後半世紀に亘り幾多の苦難を乗り越えて発展し続けることが出来たのは、千人に上る歴代団員諸君、ご指導頂いた先生方、それに演奏会の都度来聴くださり絶大なご支援を頂いた何万人ものお客様と、たいへん多くの人々のおかげです。ここに改めて厚く御礼中し上げます。
この度50周年記念行事の一つとして記念誌が発刊される運びとなりましたが、設立以来の歴史が記録され、世に残されることはまことに喜ばしいことと存じます。これまた心よりお祝い申し上げます。
大学の文化レベルを示す一つの指標として、学生のコーラスやオーケストラの音楽レベルの高さがあると言われます。阪大男声の歴史と現状は今や関西は勿論、全国の視点で見てもメジャー級です。オーケストラなど学内諸音楽団体の活動状況と併せて考えれば、阪大の文化レベルはかなりの高さに成長して参りました。阪大男声の築き上げてきたものの価値と役割は極めて高く有意義であると申せましょう。
近年大学の男声合唱活動が低調になってきたと言われております。混声合唱やオーケストラの盛況ぶりと比較すればそうかもしれませんが、礼会人の男声合唱活動はむしろ活発化しているように感じます。大学でも努力すれば活性化は充分可能の筈です。一頃40名近くに減っていた阪大男声が最近急速に拡充しつつあることは、これを証明するものと言えるでしょう。ここ数年間の現役諸君の努力を高く評価するとともに、気を緩めずに一層頑張っていただきたいと期待しております。
阪大男声が今後ますます充実し、よい音楽を阪大男声らしくますます立派に演奏し続けることを確信し、また、この記念誌が歴史の伝承とともに今後団員諸君の精神的支柱の一つとしておおいに役立てられることを祈念いたしまして、お祝いの言葉に代えさせていただきます。

大先輩たちの男声合唱 桂 豊 (大阪大学男声合唱団50年史より)
ここに大阪高等工業学校校歌の楽譜がある。男声4部の編曲版である。作詞者と編曲者については知識がないが、作曲者永井辛次は大阪音楽学校(現大阪音楽大学)の創設者その人である。
この楽譜は3年前の2000年に旧造船学科(現地球総合工学科船舶海洋工学科目)の同窓会“庚子造船会"(コウシ...)が創立百周年記念誌“庚子造船会百年の歩み"を編纂した折、昭和6年大阪工業大学附属専門学校卒/昭和9年同大学卒の小林治男氏から膨大な与真や資料とともにご捉供頂いたものである。

楽譜を見るとなかなか凝った編曲で、人正末期、せいぜい昭和初期にこれだけの男声合唱が校歌として歌われていたのに驚かされた。この編曲なら20人程度以上の合唱団でないと歌いこなせられないのではなかろうか。
早速小林氏に電話してお尋ねしてみたところ、同氏は“私白身は合唱団員ではなかったが、校歌は式典などで随時歌ったもので、この旋律はみんな知っていた。”とのこと、先輩方はなかなか高い音楽性を持っておられたようである。
同会の承諾を得て、楽譜を“庚子造船会百年の歩み"から転載した。機会があればぜひともこの男声4部合唱の形で演奏・録音し、同会や工学部の同窓会“大阪工業倶楽部"に提供しておきたいものである。
ここで阪犬工学部の移り変わりを簡単に紹介する。
大阪大学工学部の前身は大阪帝国大学工学部で、医学部と理学部しかなかった同大学の創立3年目に当たる1933年3月に犬阪工業大学(官立)から移されたものである。さらにその前身が大阪高等工業で、1901年(明治34年)に大阪工業学校から改称され、1929年(昭和4年)大阪工業大学に引き継がれたが、1931年の最終卒業生までの2年間は大阪工業大学附属専門学校として存続した。
大阪工業学校時代の1899年に機械工芸部、化学工芸部に続いて造船部が設立されたが、同部船体科に第1回生が入学した1900年をもって庚子造船会の歴史が始められている。(筆者は現在同会理事長)
楽譜
1。原典

創立時苦労したものの一つが楽譜である。
当時はロシア民謡や黒人霊歌などの全盛時代で、学生合唱団にもしばしば取り上げられていた。
阪人男声の進むべき方向として、どこでも歌っているものではあまり面白くない。折角大学の合唱団なのだから少しはアカデミックなものを演奏したい、また、できれば出所のはっきり分かっているものを取り上げたいと考え、当時比較的人気がなかったドイツ合唱曲に着目した。合唱にせよ独唱にせよ声楽を勉強するのなら、長期的に見てドイツ語歌詞に慣れておくのが好都合との考えも底流にあった。
旧制高校では盛んに歌われていたようで、松江高校ご出身の中島一彦氏(故人)がPeter版のLiederschatzと言う70曲余りの曲集を貸して下さったのが大変有難く、当時の主要レパトリーになった。しかし、それだけでは満足できない。今と違って男声合唱の新しい楽譜は日木楽器(現ヤマハ)にも三木楽器にもほとんど無いし、取り寄せることもできず、僅かに梅田新道のササヤ(現大阪駅前第2ビルで新本を取り扱い)で中古楽譜を見つけるしか無い。すると同氏は長井斉先牛(故人、当時関西合唱連盟理事長)がLiederbuchと言う5cm位の本をお持ちで、Liederschatzはその抜粋に過ぎないと言う。中島氏の紹介を得、厚かましくも先生にお願いして諏訪ノ森のお宅にお邪魔し写譜させて頂いた。
数回で20曲程度だったろうか.Lachnerの“Hymne an die Musik"や、“Liebe"などR.Straussの作品群はこのときの成果と記憶する。ササヤの古本漁りで最大の収穫は何といっても“Muss i denn"である。
“Neue  Singebuch fuer Maennerchor"と名づけられ、戦時中の出版らしくナチスのシンボル鉤十字の入ったこげ茶色の表紙の本で、86曲収められている巾の15番目、見開きには“1940年のCopyright"とある.[Sep.1.1952.ササヤにて]とあるから、創立後8ヶ月余で入手したらしい。4段の楽譜で歌詞はいわゆるトゲトゲ文字である。原譜のコピーを添付しておく。
一目でその素崎らしい編曲に惚れ込み、早速2段で普通のローマ文字に直して練習に持ち込んだところ、大変な人気でたちまち愛唱歌、団内では2巻の18番として収められたが、文字通りわれわれの十八番になった。
一方、次第に貿易の白由化が進み、日本楽器にも輸入楽譜が並び出した。懸案であったBrahmsの“A1trhapsodie"も手に入ったが、まだまだ男声合唱曲はほとんどない。
カタログを頼りに注文して見て“Nun da der Tag"などHindemithの作品が入手できたのは幸いであった。取り寄せる場合はなにしろ現物がなく、作曲者や題名などで判断して注文するのだから、来てみてがっかりすることの方がはるかに多かった思いがある。
選曲時など楽譜を照査する折、できれば複数の出版を比較して演奏譜を確定することが望ましい。古典管絃楽曲などでスラーのかけ方、すなわちフレーズの考え方が全く逆の2例を見て驚いたことがある。原典版を入手し易くなったのも大層有難いことといえよう。
5年ほど前に中田喜直氏(故人)の公開レッスンを拝見する機会を得たが、同氏は作品の出版に際して校正の確かな出版礼2社を挙げ、それ以外の版は責任がもてないと力説されて、原典の重要性を強調しておられた。指揮者が心すべきことではある。
2。謄写版印刷のノウハウ
ところで、その頃の楽譜は印刷された正規のもの以外はほとんどが“ガリ版"と呼ばれる謄写版印刷(正式には孔版印刷)であった。
原紙(高級和紙の雁皮紙(ガンピシ)にパラフィンを沁み込ませた半透明な薄い紙)を平たい鑢(ヤスリ)の上に乗せ、鉄筆(鉄製の先を持ったペン状のもの)で力を入れ“書く"と言うより“削る"に近い感触。原紙1枚で2ページ分だが、これで3時問前後かかる。間違えたときは、鑢の台木で擦って均した上に修正液(パラフィンを溶かした液)を塗って補修し、その上から書いて行く。楽譜の製版はもちろん五線を定規で引くことから始まるが、間隔や引く強さなどは勘の世界。
印刷は蝶番(チョウツガイ)のついた木枠に細かい絹網を張ったものに原紙を貼り付け、直径5センチ程のゴムローラーにガラス板でインキをつけて転がす。
製版、印刷ともノウハウがある。天王寺高校時代自分たちの校舎を中学に占領されたためお世話になっていた夕陽丘高校の福田千代男先生と、大学入学直後から参加していた合唱団グリーンエコー(混声)とジュピターコール(男声)の幹事長だった河野義信氏には特に色々と教えて頂いた。その幾つかを挙げてみる。
(1)l00枚くらい刷ると“雨降り現象"(原紙が弱り細かい点々が出て来る)が起こることがあるので、あらかじめ修正液をシンナーで薄めたものを原紙全面に塗ってから製版を始める。これで1000枚は充分刷れる。
(2)卜音記号、へ音記号、白玉黒玉、8分音符〜の旗、4分休止符などは専用の定規を使う。河野さんは自作しておられたが、ある時期から市販されたので、私はそれを使い、卜音記号と旗は自作のものを使い続けた。卜音記号は3回に分けて書き、旗は小さい三角定規の角を落としたものを重宝。
(3)玉とか太い縦線のように広い面積を潰すのには、先を平たくした鉄筆を使う。これも自分で改造。
(4)鉄筆は常に定規に'当てて使う。文字やスラーなど曲線を引くときも定規があると鑢に負けず比較的美しく書ける。慣れると結構早い。小文字の“o"はさっきの旗用の定規に明けた孔。
(5)謄写版用として市販のインクではべとつき、美しい仕上がりにならない。平版(オフセット印刷)用の固いインクを薄め油(灯油であったと記憶する)で好みの濃度にする。このとき黒インクのみでは色が濃すぎて却って良くない。やはり平版用の白インクを混ぜると落ち着いた黒色で美しい上にコストも安い。混ぜる比率は勿論腕前の問題。
(6)ザラ紙や中質紙は刷り上りをどんどん重ねて行っても良いが、上質紙では1面刷ったら合紙(アイシ、ザラ紙の古いもの)を1枚人れて行き、そこそこに乾いてから合紙のまま裏を刷る。
(7)印刷を効率的にかつムラなく綺麗に行うために、天上からゴムひもで木枠を吊り、少し開いた枠をインクのついたローラーで押し付けながら右手だけで刷る。左手は刷れた紙を抜き取るのに使う。プロは1時間に2000枚位刷ると言う、私でも1000枚位は刷れた。
(8)紙は松屋町(マッチャマチ)の問屋で買う。全紙を縦横それぞれ3つに切り、端も切って綺麗に整えることを、“九つ切り化粧"と言い、その場で切って呉れる、これで普通の大きさ。本来“連"(「レン、全紙1000枚」単位だが、200枚でも売って呉れたと思う。勿論安いし、好みの紙が買える。楽譜用にはザラ紙ではなく極め細かく白い中質紙を使ったから、印刷も美しく長持ちした筈。当時東賑町(現在谷町6丁目))に住んでいたので、白転車で買出しに行けたのも幸いした
3。楽譜シリーズ
楽譜を製版するとき、1ペ一ジ1時問半もかける訳だから、殆ど覚えてしまう。また、楽譜が読みづらいために練習効率が落ちるのは、指揮者にとって辛いこと。時問は随分取られたが、正確な、読みやすい楽譜を作ることは私白身のためでもあった。
当時は今と違って楽譜の著作権は殆ど問題視されず、アマチュアコーラスの楽譜は謄写版印刷が手軽で安価なごく普通の方法であった。写真的な方法もあるが、一度ネガを撮ってから青写真に焼き付けるもので、かなり高価で手が出なかった。
発足直後から1954年始めまでの2年問で合計3巻のシリーズを作っているが、発足時の集まりにも別の楽譜を用意していた。第1回の練習を兼ねた集まりは南校(北校とともに教責部、旧大阪高等学校で今はない)で行ったが、そのとき使ったらしい4ペ一ジものの楽譜にはWoodburyの“Stars of the Summer Night"、Flemming?の“Integer Vitae"、Bachのコラール“Veni Creator Spiritus"、Brahms編曲の“In Sti11er Nacht"(三浦和夫訳詞)の4曲が載せられている。声出しは第1曲の“Stars of the Summer Night”だったように思う。曲の番号はこの1枚ものの4番で一旦打ち切り、新しいシリーズ“第1巻"と称して黒人霊歌“ヤコブの梯子"に始まり、“Bundeslied"で終わる24曲40ぺ一ジものを作った。
第2巻は“Fruehlingsgruss"〜“Deutchemesse"の26曲69ぺ一ジ、第3巻は“Staendchen“〜“Genuegsamkeit"の24曲61ペ一ジ、このほか、網野峰山への演奏旅行で歌ったオペラ合唱曲などを含めると合計80曲180ペ一ジ程刷ったことになる。
第3巻では原典も明示した。中には、“Heidenroes1ein"や“Der traeumende See"など、第1巻で刷ったものの残部が無くなり、第3巻で再版した曲もある。1曲コピーを添付しておく。
ところで第2巻までは刷って配るだけ、新人が来れば残部から渡していたが、製版の苦労に比べて印刷は多少部数が増えても手間はあまり変わらない。そこで、第3巻を始めるとき、従来通り現団員用を中質紙で刷る以外に、厚手の上質紙で120部保存用に増し刷りし、後々の世代が貸し譜として使えるよう製本して残した。聞くところによると、貸さずに無償供与でばら撒いたため数年で無くなった由。当初の狐いとは違ったが、いい思いをした後輩が100人以上いるのだから、“以て瞑すべし“と言うべきか。
5大学OB合唱団のジョイント(ANCORの会)で合同演奏の指揮をする機会が与えられたとき、アンコールに選んだ“Heidenroes1ein"は第3巻をコピーして使ったところ、表題が“Haidenroes1ein"となっており、その上“`sRoes1ein"の歌詞3箇所の内2筒所は問違いであることがアルママータの方から指摘された。
私はPeter版から正確に写した記憶があったので、原譜通りだと説明したところ、次の練習日にゲーテ全集での調査結果を持ち出されてギャフンとなった。さすがと感心したのだが、調べて見ると、第1巻21曲目の表題は“Heidenroes1ein"となっているし、歌詞中の“‘s”は誤った箇所を消した痕がある。あの折誰かに教えられたのを忘れていなければ恥をかかずに済んでいたものをと嘆いた次第。
4。余談
阪人男声や大阪男声の楽譜は材料費以外一切無償で刷っていたが、グリーンエコーやジュピターコールはある時期から市価の半値程度呉れるようになった。また、ロコミで依頼されることもあり、この場合はプロの市価並で注文して貰えた。何しろプロの印刷所では移調はおろか、4段譜を2段に纏め直すことも出来ないし、間違いも結構多かった。私は読みやすさでひけは取らなかった上、間違いがはるかに少なかったので、お得意先も次第に増え、結構なアルバイトとして楽譜を買う資金源になった。買った楽譜はその後オーケストラの指揮に関わる機会の源泉となったのである。
余談だが、1回生のとき北校(今の教養)で小さい混声合唱団を指揮していた折のこと、4段にすれば良かったのだが、女声が上でト音記号、男声が下でへ音記号の2段楽譜を渡したところ“どこを歌うのか分かり難い"と言う。こちらも意地になり5色刷りを試みた。
黒が五線と2パート以上の共通部分、ソプラノ、アルト、テナー、バスそれぞれに別々の色にした。作って見るとおしゃかの山、一度で懲りた。何しろ五線の問隔は1.6mm程度だから0.8mm違うと隣の音になる。誤差0.4mm以内の精度を5枚の原紙を作って5回の印刷で維持するのだから1同の平均許容誤差は0.08mm、この精度を謄写版で出すのはまさに名人芸の世界。何とか使えそうなのを団員に渡したが、今私の手元に残っていないのが残念である。

 
 

2000年11月OB名誉会長に就任されたとき、
その功績を讃え感謝状と記念品が贈呈されました

大阪男声合唱団 第1回定期演奏会

アンコール「Muss i denn」の指揮を青山氏からバトンタッチ

 

賛助出演
ルナ・バロック弦楽合奏団
《リュートのための古代舞曲とアリア》第3組曲


大阪男声合唱団 第2回定期演奏会
(2003年)

打ち上げパ^ティ

 

OB会総会 (2009年2月)
(かなりアルコールが効いている様子)


大阪男声合唱団 第9回定期演奏会
(2009年7月5日:大阪ドーンセンター)